繁殖のためにだけ生きているのではない人間には人生のメンテナンスが必要だ!
ドキュランドへようこそ「ステパンとマレーナ 老人とコウノトリの物語 原題:STORKMAN(クロアチアほか 2020年)」を観て

これはよかった!良質な映画を1本観た感じだ。

なぜ、老人はあんなにも愛情を持って雌のコウノトリ、マレーナの世話をするのだろうか。
また、老人とマレーナの交流は、なぜそれを観る人をも惹きつけるのだろうか。

 番組で描かれるコウノトリたちの動きから人間と同じような感情があるのではないかと思えてくる。

 特にこのドキュメンタリーの主たる登場人物である老人、ステパンは冒頭に登場する鷹、雀、猫など彼らはヒトの言葉は持たないが、人間以外の動物も感情を持つ者として語りかける。

ステパンの慈愛に満ちた言葉は、動物たちにどう響いているのかわからない。
だが、観る者は、ステパンに語りかけられた動物たちの行動に、その語りかけに応じた行動をとるものと期待もするし、確かにそれに応じているように思えるのである。

いや、ステパンの語りかけに応じてコウノトリが行動していると最も感じているのはステパン自身だろう。

 番組後半で、ステパンがマレーナに「籠の鳥になるより死んだほうがましだと思っているかも。どうして連れて帰ってしまったんだろう。あのまま放置してやれば苦しまなくて済んだのに。でも今はマレーナのことが愛おしくてたまらない」とつぶやく場面がある。
「籠の鳥になるより死んだほうがましだ」と思っているのは、妻に先立たれてもなお生き続けるステパン自身だろう。

そういう思いをなぜ、コウノトリに投げかけるのだろうか。
それがコウノトリであることは偶然かもしれない。

そういう思いを何かに投げかけなければならないところが、ステパン、観る者にも共通してあるのではないか。

ステパンは妻に先立たれ、繁殖期を終えると独りになるマレーナに自分を見出している。
自分とよく似た状態になるマレーナに声をかけずにいられなくなるのは、観る者にもわかる感情だ。

寂しくなったであろうコウノトリを励まそうとする、それは自分を励ますことである。
そのような、言わば人生のメンテナンスが特に繁殖のためにだけ生きているのではなくなった人間にこそ必要なのではないか。

このドキュメンタリーで描かれる物語が観る者にとって心温まるものでもあり、悲しくもあるのは、繁殖期を終えてなお生き続けなかればならなくなったヒトという動物が、自分の人生をメンテナンスしながら生きるという知恵だったり、そうまでして生きる哀しさと愛おしさではないか。