三島由紀夫「金閣寺」第四章まで読んだ。
そこまでのところで、認識と行動を切り口にして、引っかかったところ
以下の見出しは、私がつけたもの。太字部分が引用

1.対立状態を全的に是認する
  
  主人公は大学に進学し、そこで柏木という内翻足の学生と知り合う。
  柏木は主人公に童貞を破った顛末を語りだすのだが、その中で。

  (三島由紀夫「金閣寺」新潮文庫P.95)
  われわれと世界とを対立状態に置く怖ろしい不満は、
  世界かわれわれのどちらかが変われば癒される筈だが、
  変化を夢みる夢想を俺は憎み、(中略)
  しかし世界が変われば俺は存在せず、俺が変われば世界が存在しない

    (確信はと続き中略)
  却って一種の和解、一種の融和に似ている。
  ありのままの俺が愛されないという考えと、世界とは共存し得るからだ。
  そして不具者が最後に陥る罠は、対立状態の解消でなく、
  対立状態の全的な是認という形で起きるのだ。
  かくて不具は不治なのだ。
  

  (P.101)
  しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになった

      ことは、君にもわかるだろう。不安もない。愛も、ないのだ。
  世界は永久に停止しており、同時に到達しているのだ。
  この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註する必要があるだろうか。


  これらの柏木の語りは、認識と行動について直接、言及しているわけではない

  が、対立状態のことについて、対立状態の全的な是認を提示している。
  
  これで思い出したのは、第三章での「南泉斬猫」の講話である。
  終戦の夜、老師は「南泉斬猫」という公案(禅問答のお題)について話した。
  主人公もなぜその夜の講話にその公案が選ばれたのかわからないとしていた。
  読者にも謎だったが、先の柏木の語った対立状態の全的是認と逆になっている。

2.南泉斬猫は一切の対立を断つものだったのか
  
  老師は「南泉斬猫」を次のように説いた。
  (P.66)
  南泉和尚が猫を斬ったのは、自我の迷妄を断ち、

  妄念妄想の根源を斬ったのである。
  非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、

  自他の確執を断ったのである。
  
  この猫を斬ることで一切の矛盾、対立、自他の確執を断ったというところは、
  対立状態を全的に是認とは正反対である。
  著者は第四章での柏木の語りと対比させるために、この公案の解釈を先に

  置いたのだろうか。

  しかし、同時に先の引用個所に続いて、南泉和尚の高弟、趙州の行動の解釈は、
  (P.66)
  これを殺人刀と呼ぶなら、趙州のそれは活人刀である。
  泥にまみれ、人にさげすまれる履というものを、
  限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩道を実践したのである。


  これは対立状態を全的に是認したものとは区別されると考えるが、
  当然、一切の矛盾、対立、自他の確執を断つことではない。
 
  菩薩道は仏教の禅宗にとっては絶対的な善かもしれないが、
  普遍的な意味になり得るだろうか。
  菩薩道を辞書(広辞苑)で引くと「自利・利他の行を成就してさとりに到る道」

  とある。
    
  それを踏まえると、ここに、対立、矛盾に向き合うパターンとして、 
  1.対立状態を全的に是認する
  2.一切の矛盾、対立、自他の確執を断つ
  3.限りない寛容によって、自利・利他の次元を超える
  とでもなろうか。