100分de名著 存在と時間 ハイデガー 第2回 「不安」からの逃避より

この番組はいつも見ている。第2回の終盤で私にひっかかるところがあった。
今私が抱えている問題そのものだ。

観終わってすぐ近くのスーパーの本売り場に番組テキストを買いに走った。
そのテキストから引用すると、私の抱える問題とは以下と似ている。

 たとえば、学校に行くのがつらくて登校できなくなってしまった学生がいるとします。(中略)もちろん、辛いのならば学校なんか行かなければいいのです。世間の目など無視すればよいのです。このとき学生は、世間に同調することでかえって自分の首を絞めていることになります。しかし、そんな世間の意見なんか捨ててしまえばいいのに、それが簡単にできないというところに、問題のややこしさがあります。(P.61)

 まさに私の問題もそういうことだ。仕事に行くのが辛くて休職しているが、休んでいること自体に苦しんでいる。
もう少しこの苦しみについて言うと、仕事をするのが当たり前という常識を棄ててしまうと、「じゃ何が正しいの?自分はどうしていればいいの?」と本当に自分自身と向き合わなければならなくなる。その自分自身と向き合わなければならない苦しさでもある。

じゃ、どう考えればいいの?ということだが、それは第3回ということで番組は終わった。
ということで、第3回はまだ放送されていないので、上に書いたようにテキストを買いに行ったのだ。

で、テキストを読んだが、そこにあなたはこうしなさいとは書かれていない。
ヒントになるところをまた引用する。

 先駆することは人間を不安にし、だからこそ人間は世人へと逃れようとします。そのとき、不安のなかに踏みとどまり、自分の人生に何も答えがないことを受け入れるためには、決意性が発揮されなければなりません。人生には何も確かなことはないし、誰も正解を教えてくれない。でもそうした状況のなかで、自分自身の人生を選び取るのだと決意すること、またそうした人間でありたいと意志することが、先駆を意味あるものにするためには欠かせないのです。(P.83)

ここで、先駆、世人、決意性という言葉は一般的な意味ではなく、「存在と時間」の中で使われる言葉なので解説がいるがここではしない。上の引用した文の伝えたいことは、だいたいわかると思う。

それに、だめを押すように書かれているところも引用する。

 自分の人生において起こることは、すべてが別の可能性もありえたのであり、そうであるにもかかわらず自分は今ここにいる自分なんだ、だから自分の人生に起きるすべてのことは、「私」が「私」であるということに「負う」のだ、と考えることです。(P.83)

 ここまで言われると、具体的にこれから私が何をすればいいかは、まだわからないにしても、私が生きている限り、今、この瞬間にも何かが私に起こっていて、それは明日朝起きたら今朝のように頭痛や気分の悪さがあるかもしれないが、そこで布団を頭からかぶって寝ようが起きていつものように新聞を読もうが、それは私が「負う」ことであり、それに正解も不正解もないということはわかる。いちいちそこで正解か不正解に悩み、頭痛や気分の悪さを増長させることはないのだ。

 さて私は明日、どんな気分で朝を迎えるだろうか。今、そうここに書いているのは不安を訴えているのではない。
明日の朝の気分がどうであろうと、それを引き受けようではないかという意志である。
布団をかぶって寝るのも起き上がって新聞を読むのも、その選択は私がしてよいのである。