2017/7/15-16-17日本の歴史を考える会・吉野山高野山の旅で感じた事
我が国は国土の四方を海に囲まれて、台風、地震、津波、火山噴火など自然災害に何度も襲われながらも、四季折々の豊かな自然にも恵まれ、その自然そのものに神が宿っており、その自然そのものに畏敬の念を持っている、その風土が日本の神社形成の最大の理由であると言う考え方を私は持っている。
今回、日本の歴史を考える会で奈良県吉野山と和歌山県高野山を巡って、神仏が習合した事を再確認出来た様に思われる。
仏教は、釈迦が紀元前450年頃、「人の一生は苦であり永遠に続く輪廻(りんね)の中で終わりなく苦しむ事になる。その苦しみから抜け出す事が解脱(げだつ)であり、修行により解脱を目指す」事が初期仏教の教えであった。
欲望否定・エリート主義・出家主義・戒律主義の小乗仏教と異なって、日本に伝来した大乗仏教は欲望肯定の傾向があった。「煩悩(ぼんのう)から逃れて山に篭ることなかれ、大衆を救う為に山を降りよ」と言う事だ。
仏教が日本に伝来後、日本の土着の神社の神道と習合して、山川草木悉皆(しっかい)成仏の思想が生まれて、神仏習合した。日本人の意識の根底には、この様に自然の万物に神が宿っているとの思いが流れ続けているのだ。
804年、入唐。
唐の青龍寺(せいりゅうじ)恵果(けいか)和尚と言う密教の祖から、教えを請うた讃岐國の真魚(まお)のちの空海(くうかい)は遍照金剛(へんじょうこんごう)を賜り、帰国後、真言宗(しんごんしゅう)の開祖となった。
真言宗では、人間は生きたまま仏になれる。お祈りやマジナイで病気を治したり災いを除くことが出来ると言う教えだ。
空海の真言宗は、欲望肯定、現世利益的、宇宙の真理を説く奥深い秘密の教えである。
平安時代の最澄・空海の後、鎌倉時代の浄土宗の法然(ほうねん)、浄土真宗の親鸞(しんらん)、曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)の仏教では、個人を救済する為の思想となった。
更にその後の臨済宗(りんざいしゅう)の栄西(えいせい)、日蓮宗の日蓮(にちれん)の仏教では、厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)で仏教の思想性を強調するだけではなく、自分達の宗教がこの国を護り育てていこうと言う思想となった。
同期の遣唐使であった最澄(さいちょう)は帰国後、比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建て天台宗(てんだいしゅう)の開祖となった。天台宗では、僧は山に篭り人々の手本となり人々に尽くす為に一心に学問に励み修行を積むと言う教えだ。
この意味では、空海も最澄も同じく人々に尽くす教えである。
空海は、唐で密教・土木技術・薬学を学び二年で帰国することになった。
806年帰国。
インド密教は錬金術であると言う説も有り、又、その点でも空海が二年で帰国することになった理由があると考えられる。空海が奈良県吉野山と和歌山県高野山、四国八十八カ所等積極的に各地を巡り治水工事等土木技術を人々の為に有効活用して日本の礎を築いたが、その根底に有る国家の形成の目的も同時に考えていかなければならない。
宗教は、いつの時代でも政治との繋がりの中で、多様な教義を産み出して変遷していった。
835年、空海61歳で高野山奥之院弘法大師御廟(ごびょう)にご入定。
921年、醍醐(だいご)天皇から弘法大師(こうぼうだいし)の諡号。
真魚(まお)
遍照金剛(へんじょうこんごう)