今日12/24土曜日クリスマスイブは、比較文明学会九州支部第59回研究会が、西南学院大学コミュニティセンターで開催された。支部の研究会としては結構多い30名の方々のご参加を頂き活発な討論を行うことが出来た。新入会員も数名申込み頂き、感謝申し上げたい。

13:30から理事会で、支部のシンポジウムのテーマについて論議。支部の人事について発表された。

14:00からお二方からの報告
一人目の報告者は、九州大学大学院のK氏、「宗教は危険なものか必要なものか?東西宗教の比較から現代日本を考える」について報告がなされた。2016年7月の相模原障害者殺傷事件とナチスドイツT4作戦を優生思想と人権侵害を東西の宗教の思想との関連性から考察していた。キリスト教ヨエル書「私は全ての人に我が霊を注ぐ」創世記「神は御自分に形どって人を創造された」とあるが、白人社会の奴隷制と人種差別、男女差別が存在しており、中世期には命の序列化は顕著、近代以降命の等質化がみられる様になってきた。
ルター宗教改革によって、階層秩序崩壊と平等意識の進展が見られるようになった。
欧州では、オランダが海洋国家として、共通の神が無い国へ進出した際、自然法により国際法を根拠付け、植民地政策がとられた。
ロックの社会契約論によって、自然権である生命財産を守る為に社会契約を人民が結んで政治社会を設立、政治権力は人民の信託によるものとされた。
欧州で、キリスト教と自然法思想の独特な結合が近代以降の人権や平等の思想を涵養した。
日本の神道は、多神教として一種のアニミズムであり倫理面での曖昧さが有ると言う見解には違和感を感じた。
以上のことから、西洋の植民地政策は白人だけが人と言う身勝手な考え方で有ると思われる。
大東亜戦争敗戦後のポツダム宣言受託により、日本では民主主義や人権規定が一挙に充足されたことにも、有る意味で自国において完全なる平等化を達成していない米国による民主化の実験ではないかとの疑問が起こるのである。
日本が世界に誇ることが出来る道徳心も戦後薄くなってきたと感じる。「自由」が、人と人の絆を断ち切ってしまった様だ。

二人目の報告者は、至誠館大学のH氏、「何故京都は今でも都なのか、資源論的考察」について報告があった。
日本人の自然(神)への畏敬と天皇制の関与によって、最高のモノが天皇の住処である京都に集まった。
天皇を神と崇める職人が腕を競って先端的なモノを製作し至高の一品を天皇に献上した。天皇は、文化的吸引力として作用した。今でも多くの職人が皇室御用達を守る為に精進している。
江戸が最高の工芸品の生産拠点となりえなかった原因が、天皇と将軍の権威の違いであるとしていた。
江戸は武士の町で、質実剛健を宗とする文化であり、当然都である京都との違いは明白である。
しかしながら、天皇が至高の工芸品のパトロンであった事は揺るぎのない事実であると考えられる。
奈良から京都に朝廷が移転した理由を水資源の問題と絡めておられた事に新鮮さを覚えたものの、何故最初に奈良に都が置かれた事に対する考察に若干の不足を感じた。太陽の道レイラインの事と絡めて考察して行くと水資源論的考察だけでは説明出来ない事にも説明が付くことが多々あると考えられる。

年3回の研究会、普段は余り難しい事は考えていないので、久しぶりに倫理的な思考を実践して頭の活性化に繋がった。
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