いきなりですが、別に私はキリスト教徒ではないですが、下に引用した『新約聖書』の句には、大いに頷かされます。


6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます(マタイによる福音書)。


ただし、これによって開眼したというよりは、再発見した、と言ったほうが当たっています。それは、祈りという神聖な行為が、偽善であってはならない、という精神です。

しかし、人前で泣いてしまうことがあるように、思わず祈ってしまう、という瞬間も否定できません。また、人前から隠れて祈った結果、その人の言動に対して、その祈りの影響はないのでしょうか?

こう考えてみて、また、よくある「客観的」な評論がそうであるようにはせず、自分のこととして意見したいと思います。


祈りの結果、現実に働きかけて、どうにもならないこともあります。しかし、そのことがさらに、本当に祈りたい気持ちを倍加させます。

私は、その結果、〈書く〉という行為に、結びつきます。審美的な要求に応えられているかとか、心配になっている場合でなく、イヤというほど落胆させられる現実に直面すればするほど、書きたくなるのです。