走っているとき、何を考えているんですか?

これ、本当によく聞かれる。
そのたびに、
「うーん…何考えてるんだろうなあ」と思ってた。

深いこと言った方がいいのかな、とか。
フォームのこと?
レース展開?
メンタル?

いや、違うんだよな、と。

と思っていたら、村上春樹がもう言ってくれてた。

「実際にはまともなことはほとんど何も考えていない。

僕は走りながらただ走っている。
僕は原則的にはただ空白の中を走っている。

逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っているということかもしれない。」

これだよ、これ。って思った。
空白。

なんか哲学っぽいけど、
実際はすごく単純で。

ただリズムに乗って、
体を前に運ぶことに集中してるだけ。

足音。
呼吸。
地面の感覚。

それだけ。

過去のことも、
未来のことも、
人にどう思われるかも、
いったん消える。

残るのは、

「次の一歩」

だけ。

これがすごく気持ちいい。

無理にポジティブになってるわけでもないし、
やる気に満ちてるわけでもない。

ただ、静か。

頭の中の“会議”が、一回終わる感じ。

これ、車の運転でもある。
長距離を運転してて、
ふと気づいたら、もう何キロも進んでる。

でも記憶が飛んでるわけじゃない。

ちゃんと信号見て、
ブレーキ踏んで、
ハンドル操作してる。

ただ、余計な思考がない。

頭は静か。
体は働いてる。

あの状態。

走るって、
速くなるためだけのものじゃないし、
根性つけるためのものでもない。

頭の中のノイズを一回外す時間。

情報も、評価も、悩みも、
全部ちょっと横に置いて、

体だけが前に進む。

すると不思議と、

自分が
「ただの人間」に戻る。

先生でもなく、
指導者でもなく、
父でもなく、
役割のない自分。

呼吸して、
足を出して、
前に進んでるだけの存在。

これが、なんかいい。

たぶん人って、
ずっと考え続けてると、
自分がどんどん重くなる。

走ると、軽くなる。

何かを解決したわけじゃないのに、戻ってこれる。

だからまた走る。

何かを考えるためじゃなくて、何も考えない時間を取り戻すために。



今日はインフルエンザ流行で学校閉鎖。

時間ができたので
『袈裟と駅伝』を一気に読了。

駒澤の話が中心かと思いきや、順天堂の選手のエピソードもかなり出てきて、個人的にはグッとくる場面が多かった。

駅伝の強さの裏側にある「人間の物語」がしっかり描かれていて、ただの競技本ではなかったです。

そしてこの本を勧めてくれた方の感想が最高で、思わず笑った。

「澤木先生の印象がラオウからトキになった」

厳しさの象徴みたいに語られがちな存在だけど、
本を読むと、その奥にある優しさや覚悟、人を育てる人としての姿が見えてくる。

やっぱり、強いチームの背景には、
強い“人”の物語がある。

駅伝はタイムだけじゃない。



強い選手は、寒さの中を走っているんじゃない。

走りの中に入ってしまうから、寒さが消える。

「寒さ」は気温じゃなくて“走りの質”で感じ方が変わる。

■いい走りのとき、寒さを感じない理由

体温が上がっている(代謝・血流が高い)

集中が外ではなく「動きの中」にある
脳が“危険情報”として寒さを拾わない

つまり、
身体も脳も「競技モード」に入っている。

トップ選手が雪でも平然と走るのは根性ではなく、状態が合っているだけ。

■ダメな走りのとき、寒さが倍増する理由

これは逆で、
体が動いていない → 体温が上がらない

フォームが崩れて力む → 血流が悪い
意識が外(寒い・きつい)に向く

結果、
寒さが“刺さる”ように感じる。



カーボンシューズを買うと、モチベーションが上がる。

それは間違いない。

でも本音を言うと、性能が良ければ良いほど、すぐには履きたくなくなる。

「ちゃんと仕上げてから履きたい」 
「この状態で履くのは、失礼じゃないか」
しょぼい結果だと、カーボンシューズのほうが泣いてしまう気がする。

この感覚は、道具に頼ろうとしているというより、道具に試されている感覚に近い。

ナイキから中国メーカー リーニン にシューズを変えた大迫傑 は、こんなことを語っている。

「“証明する側”に回ると、競技は一気に面白くなる」

みんなが知っているブランド。 
実績が並んでいる選手。 
説明不要で「強い」と分かる存在。

彼らは、もう疑われない側だ。

でも、疑われる側に回った瞬間、走りそのものが物語になる。

フォーム。 
レース運び。 
最後の粘り。 
そして結果。 

すべてが「証拠」になる。

無名でも、実力で認知をひっくり返す。 
これは競技者にとって、最高に燃える構図だ。

今回、僕が買ったカーボンシューズも、中国メーカー・リーニンの一足。

確かに大迫傑が履いているが、日本ではまだ広く認知されているとは言えない。

だからこそ、面白い。

有名ブランドを履けば、「シューズがすごい」で終わる。

でも、無名のシューズを履いた瞬間、説明責任はすべて走り手に移る。

「このシューズで、その走り?」

それとも 「この走りだから、このシューズ?」

言い訳はできない。
でも、それがいい。

カーボンシューズは、速さをくれる道具じゃない。

今の自分に『それでいいのか?』と問いかけてくる存在だ。

だからこそ、ちゃんと積み上げた脚で履きたい。

証明する側に回ったとき、競技は「結果を出す場」から、物語を生む舞台に変わる。

この一足は、履かれる日を待っている。
その日、泣かせるか。語らせるか。 それを決めるのは——走り手次第だ。




― 日本昔ばなし「節分の鬼」から学ぶ、つながりと希望の物語 ― 

あらすじ
山奥に一人暮らしのじいさんがいた。

家族を亡くし、村人からも避けられていたじいさんは、節分の夜に「鬼は内、福は外」と叫んだ。

すると、本物の鬼たちが現れ、じいさんの言葉に感動し、心温まるひとときを共に過ごす。

鬼たちは金を残して帰り、じいさんはその金でお墓を整え、「もう少し長生きすることにした」と前向きに生きる決意をする。

鬼たちはなぜ来たのか?

本来、追い払われるはずの鬼たちが、じいさんの家に来た。

それは、じいさんがこう叫んだから。

「鬼は内!福は外!」

この言葉に、鬼たちは大喜びした。

だって、自分を「いてもいい」と言ってくれたから。


この物語が教えてくれること(3 つ)

① 偏見を超えたとき、人とつながる
「鬼=悪いもの」「じいさん=変な人」
みんな決めつけていた。でも、じいさんの言葉と鬼たちの涙は、それが間違っていることを教えてくれた。

▶︎見た目や過去じゃなく、“今の気持ち”に目を向ける。

② 思いやりの言葉は、誰かを救う
たった一言、「鬼は内」。それだけで、鬼の心が救われ、じいさんの人生も動き出した。

▶︎ 言葉には“人を変える力”がある。

③ 寂しさを超えるのは、誰かとのつながり
「一人ぼっちだったじいさん」にとって、鬼たちは“福”だった。

鬼たちも、じいさんに出会って“自分の居場所”を感じた。

▶︎ 福って、お金でも物でもなく、“誰かとつながること”


じいさんの最後の言葉が胸に刺さる

「わしはもう少し長生きすることにした」 人は、誰かに必要とされるとき、生きる意味を見つける。

最後に:自分にとっての“福”ってなんだろう?
・誰かと笑ったとき? ・本音で話せた夜? ・心があたたかくなった瞬間?

「鬼は外!」って言う前に、ちょっと待った。

もしかしてその鬼、ええヤツかもしれんで?
なんなら、来年も来るかもしれんからな。玄関あけとこ。ストーブもつけとこ。ついでに一杯やるか?笑



―― なぜ、私たちは毎年「見ちゃう」のか?

正月のテレビ。 

特に熱心な陸上ファンでもないのに、気づくとチャンネルは箱根駅伝。

毎年、必ず聞く言葉があります。 「視聴率が異常」 「正月の怪物コンテンツ」。

でも、冷静に考えると不思議です。

同じ長距離、同じ駅伝でも、ニューイヤー駅伝や女子駅伝は、ここまで見られない。

なぜ箱根だけ、こんなにも人を引きつけてしまうのか。

① 理由 「物語」を見ているから

箱根駅伝は、スポーツ中継の皮をかぶった 巨大な物語装置 です。

4 年間の集大成。レギュラー争い。補欠。怪我。
挫折。

そして、最後の一本の襷。

一人ひとりに「背景」があり、私たちは無意識のうちに、こう見ています。

「速いかどうか」ではなく、「この人は、どんな物語を背負っているのか」。

人は結果よりも、過程に心を動かされる。 

箱根駅伝は、それを最初から最後まで、逃がさず見せてくる競技です。

② 理由 「削ぎ落とされた身体」に本能が反応する

箱根を走る選手の身体は、極端です。 

無駄がない。脂肪がない。迷いがない。

あれは「健康的」な身体というより、目的のために削ぎ落とされた身体。

私たちはそこに、文明社会で失ってしまったものを見てしまう。

余計なものを持たず、ただ一つの目的に向かって走る姿。 

これは理屈ではなく、本能レベルで惹きつけられる光景です。

③ 理由 「襷=責任」を可視化している

箱根駅伝の主役は、実は「走者」ではありません。

襷です。 

自分の都合では外せない。自分の気分では投げられない。仲間の人生がかかっている。

現代社会で、ここまで重たい「責任」を、目に見える形で背負う場面はほとんどありません。

だから私たちは、襷を見た瞬間、心のどこかで問いを突きつけられる。 

「自分は、こんな責任を引き受けて生きているだろうか」。 

④ 理由④「止まらない世界」を疑似体験できる

箱根駅伝では、基本的に立ち止まることが許されません。

きつくても走る。折れそうでも進む。逃げ場がない。

それを、こたつに入りながら、安全な場所で見る。

これはある意味、自分の人生を重ねる装置です。

本当は逃げたい。本当は止まりたい。でも止まれない。

だから、見てしまう。

⑤ 理由⑤「失われた日本的価値観」を映している

箱根駅伝は、よく言えば古い。

根性。
忍耐。
集団。
我慢。
責任。 

今の時代、これらはどこか居心地の悪い言葉です。けれど心の奥では、多くの人がこう思っている。

「それでも、ああいう強さに憧れている」

箱根駅伝は、否定されつつも消えなかった価値観を、正月という特別な時間にだけ、そっと解放する場所なのかもしれません。

⑥ だから「見ちゃう」

箱根駅伝は、速さを競うだけの競技でもなく、勝敗だけを楽しむ娯楽でもない。

「自分の人生を重ねてしまう鏡」だから、見てしまう。

走っているのは学生なのに、
胸が苦しくなるのは、今を生きている大人たちです。

⑦ 最後に

箱根駅伝を見て、少しでも胸がざわつくなら。

それは、あなたの中に、まだ消えていない「走りたい何か」が残っている証拠。

だから、見ちゃう。




という言葉がある。
その意味を、ハスの葉はとても静かに教えてくれる。 

湖や池に咲くハスの花は、きれいな場所から生まれるわけではない。

ドロドロの泥の中から芽を出し、やがて驚くほど美しい花を咲かせる。

だから仏教では、ハスの花の中にお釈迦様がいる、と言われてきた。

ある池に、ハスの葉を一枚浮かべたとする。

その葉が毎日 2 倍ずつ増えていき、60 日目に池いっぱいになったとしたら、私たちはこう考えてしまう。

「じゃあ、30 日目には半分くらいまで広がっていたのだろう」と。 

でも、現実は違う。

60 日目に 100%なら、その前の日の 59 日目は 50%。

58 日目は 25%、57 日目は 12.5%、56 日目は 6.3%。

つまり、池がほとんど埋まっていないように見える時間が、圧倒的に長いのだ。

成功も同じだ。

私たちは努力と結果を、直線で結びたくなる。

やればやるほど、少しずつ成果が出るはずだ、と。

けれど本当の成長は、直線ではなく曲線で起こる。

しばらくの間は、何も変わっていないように見える。

周りからも、自分自身からも、「意味があるのか」と疑われる。

それでも、水面下では確実に積み重なっている。
そしてある日、突然、結果が目に見える形で現れる。

まるで一夜にして池が埋まったかのように。

過去だけを見ていると、人は立ち止まったように感じる。

未来を信じて見ていると、上昇していることがわかる。

心の中に光があるなら、必ず“一気に広がる瞬間”はやってくる。

ハスの葉が教えてくれたのは、
「今、見えなくても、コツコツは裏切らない」ということだ。

コツコツが、いちばんの勝つコツなのである。



大学共通テスト前の受験生への激励会があった。

先生の参加は任意だったので、正直、行かなくてもいいかなと思っていた。

でも、今この学年の中には、私が教員になって最初に保健の授業を受け持った生徒がたくさんいる。

そう思うと、やはり一言伝えたくなり、会場に向かった。

最初に話すつもりだった言葉は、とてもシンプルなものだった。

「12 月から進学寮に移ってから今日までの君たちの集中力はすごかった。自信をもって進んでください。」

それだけ言えれば十分だと思っていた。

会場に着くと、直後に学校の模試があった影響もあり、思っていたより先生の数は少なかった。 

それでも来てよかった、と自然に思えた。

そんな中、話す前に英語科の柳瀬先生が、何気ない口調でこう言った。

「駅伝を走ったときのなにか秘訣を話してください。」

その一言で、少し考え直した。ああ、そうか、と。

私は共通テストを受けたことはないが、箱根駅伝やニューイヤー駅伝、フルマラソンという大舞台を何度も
経験してきた。

結果が良かったときに共通していたのは、よく眠れて、便通があったときだった。

その話をすると、会場にくすっと笑いが起きた。中にはメモを取る生徒もいた。

一方で、眠れず、体調も万全でないまま迎えた大会もあった。

でも、そういうときでも、案外「何とかなった」。

その話をすると、少し安堵したような空気が流れた。

最後に、私の好きな言葉を伝えた。 

「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く。」

やると決めて進めば、鬼も神も道を開ける。

私が走り続けて結果を残してきたように、君たちが積み重ねてきた勉強も、必ず意味を持つ。そう信じている、と。

終わってみて、手応えがあった。

それは、うまく話せたという感覚とは少し違う。

場に合わせて言葉が変わり、誰かの一言がきっかけで話が深まり、生徒の反応が返ってきた――そんな時間だった。

最初に準備していた一言も大切だった。

でも、柳瀬先生の何気ない一言が、場を少しだけ広げてくれた。

あの一言がなければ、きっと違う激励になっていた。

任意参加の場で、少人数の中で交わされた言葉。

それでも、行って、伝えて、本当によかったと思っている。



「ガッツポーズは悪なのか?」


武術家 宇城憲治 氏は

「ガッツポーズをすると力が抜ける」と言います。


これは、身体操作・身体観のレベルでは真理だと思います。


武術の世界では、

「勝った」「できた」と思った瞬間、


意識が結果(過去)に飛び、

呼吸が乱れ、体の芯が切れ、内側の張りが抜ける。


だから

達成した瞬間こそが一番危険


ガッツポーズ=隙


剣道・合気道・古武術に共通する考え方です。


では、箱根駅伝のガッツポーズはどうなのか。


ここを同じ物差しで測ってはいけないと思います。


箱根駅伝5区は、

すでに身体は限界。

技を残す段階ではなく、


走り切ることがすべての競技。


これは

「張り続ける武」ではなく、


「命を燃やし切る競技」。


決定的な違いはここ。


宇城氏の言葉が向いているのは

「まだ続きがある状況」


箱根駅伝5区のあの場面は

「すでにすべてを使い切っている状況」


だから私はこう考えます。


武術的に見れば、

ガッツポーズは確かに力が抜ける。


だから、

試合中・対人・続きがある場面では慎むべき。


しかし、箱根5区のあのガッツポーズは、

煽りでも、支配でも、勝ち誇りでもない。


命を使い切る過程で、

思わず外に漏れた“生命反応”に近いもの。


武術で言えば、

残心が切れたのではなく、

命を燃やし切らながら前に進んでいる最中の「呼気」だと思います。


大事なのは、

「ガッツポーズが良いか悪いか」ではなく、


・誰に向けた行為だったのか

・どんな状況で生まれた行為だったのか

・その競技は“張り続ける世界”なのか、“燃え尽きる世界”なのか


そこを見ずに、

形だけで裁いてはいけない。

今回の議論から、

そんなことを考えました。





みなさん、あけましておめでとうございます。


新しい一年が始まりました。年のはじめになると、よく聞く言葉があります。

「今年の目標は何ですか?」 

速くなる。 
勝つ。 
レギュラーになる。 
ベストを出す。 

どれも、とてもいい目標です。
でも今日は、目標の立て方を、少しだけ変えてみようという話をします。

正直に言います。
目標って、思った通りにいかないことも多いです。
ケガをしたり、調子が悪かったり、思うように結果が出なかったり。

そんな時、「今年はもうダメだ」と思ってしまうことがあります。
でも、それって本当にダメでしょうか。

今日はこれだけ覚えてほしいです。
目標は「何をするか」より「どんな自分でいたいか」を決めること。

たとえば、
・しんどくても、最後まであきらめない自分
・失敗しても、すぐ切り替えられる自分
・仲間の頑張りをちゃんと認められる自分
・サボりたくなっても、やるべきことをやる自分

こういう目標です。これなら、試合がなくても、調子が悪くても、毎日チャレンジできます。

年が変わると、「去年はうまくいかなかったな」と思う人もいるかもしれません。

でも、去年はダメな一年じゃありません。

・頑張ったこと  
・できるようになったこと   
・うまくいかなかったこと

全部が、今年につながる大事な経験です。うまくいかなかったところは、「今年、伸ばす場所」です。

今日ここで、一つだけ決めてください。

「今年、自分はどんな自分でいたいか」

速い自分。
強い自分。
優しい自分。
逃げない自分。
どれでもいいです。

その「どんな自分か」を決めると、今日の練習のやり方、友だちへの声かけ、授業の受け方が変わってきます。

結果は、思い通りにならないこともあります。でも、自分の行動は、今日から変えられます。
          
今日の一歩。   
今日の一本。   
今日の一言。

それが、一年後の自分をつくります。今年一年、「どんな自分でいたか」を大切にしてください。
一緒に、いい一年にしていきましょう。