最近、
「ネガティブ・ケイパビリティ」
という言葉を知った。

簡単に言えば——

「答えの出ない状況を、
無理に白黒つけず、
持ちこたえる力。」

らしい。

今の時代は、
とにかく“答え”が早い。

検索すれば出る。
AIに聞けば返ってくる。
動画を見れば解説される。

だから、
「わからない」
「どうしたらいいかわからない」
「苦しい」
という状態に、
ものすごく弱くなっている。

でも、
人生って本当は、
“わからないこと”だらけだ。

なぜ頑張っているのに報われないのか。

なぜあの人は、
あんな言い方をしたのか。

なぜ自分は、
こんなにも苦しいのか。

どれだけ考えても、
すぐには答えが出ないことがある。

昔の私は、
なんとかして“正解”を探そうとしていた。

失敗したら原因分析。
怒られたら改善。
空気が悪ければ修正。

もちろん大事だ。

でも、
人生には、
「分析では超えられない時間」
がある。

苦しみながら、
迷いながら、
情けなさを抱えながら、

それでも、
すぐ結論を出さずに、
その場に居続けるしかない時がある。

陸上でもそうだった。

故障した時。

結果が出ない時。

「もう向いてないんじゃないか」
と思った時。

すぐ答えを出そうとすると、
極端になる。

「やっぱり自分はダメだ」
「全部辞めよう」
「才能がない」

でも、
そこで結論を急がず、

“宙ぶらりん”のまま、
もう少しだけ走ってみる。

すると、
ある日突然、
見える景色が変わることがある。

これは、
他人に対しても同じだと思う。

人の苦しみなんて、
本当は簡単にはわからない。

なのに、
人はすぐ答えを出したがる。

「甘えだ」
「気にしすぎ」
「こうすればいい」

でも、
本当に救われる時って、

「わからないけど、
一緒にここにいるよ」

そういう存在だったりする。

効率。
正解。
タイパ。

もちろん大事。

でも、
“すぐ答えを出さない時間”
の中でしか育たないものもある。

知性。
創造性。
優しさ。
人間の深さ。

そして、
本当の意味での“強さ”も。

たぶん——

人生は、
「すぐ答えを出せる人」が強いのではなく、

「答えのない時間を、
壊れずに持ちこたえられる人」が、
最後に深くなるのだと思う。



大学生の頃。
私は、箱根駅伝を本気で目指していた。

毎日走って、毎日追い込んでいた。

そんなある日。
大学の授業で、学生たちを整列させる場面があった。

私は前に立ち、声を張った。

「並んでください!」

でも——
なかなか動かない。
ざわざわしている。
まとまらない。

すると、それを見ていた教授が、
ぽつりと一言。

「お前、指導力ないなあ。」

……ガーン。笑

でも、
今思えば、あの時の私は笑えなかった。

なぜなら、その言葉が、
“自分でも気にしていた部分”
に直撃したから。

私は、走ることには自信があった。

努力もしていた。根性もあった。

でも、
「人を動かす」
「空気をつくる」
「場をまとめる」

そういうことには、
どこか苦手意識があった。

だから、
教授のその一言は、
ただの冗談では終わらなかった。

“図星”だった。

そして不思議なことに——

教師になった今でも、
時々その言葉がよみがえる。

授業がうまくいかない時。

部活で空気がまとまらない時。

生徒に響いていない気がする時。

注意しても動かない時。

そんな時、心の奥で、
あの教授の声が聞こえる。

「お前、指導力ないなあ。」

しかも苦しいのは、
今でもどこか、
「実際そうかもしれない」
と思ってしまうことだ。

完全には否定できない。

だから、
52歳になった今でも、
時々あの一言が、
自分を弱気にさせる。

でも最近、少し思う。

あの言葉が、
ずっと残っているということは——

私はずっと、
“人を動かしたい”
と思ってきたのだ。

ただ命令したいのではない。

ちゃんと伝えたい。
ちゃんと届いてほしい。
人の心を動かせる人間になりたい。

だから、傷ついた。

そして今、
52歳になって思う。

本当に指導力がある人とは、
最初から完璧に人を動かせる人ではない。

「伝わらない」
「届かない」
「空気が動かない」

その苦しさを知りながら、
それでも、
人と向き合うことをやめなかった人間なのかもしれない。

あの時の一言は、
今でも痛い。

でも、
その痛みがあったから、
私は今も、
“どうしたら届くのか”
を考え続けている。



子どもの頃、親は絶対だった。

「ちゃんとしなさい。」「こうしなさい。」「ああしなさい。」

もちろん、愛情だったのだと思う。

でも、子どもにとって、親の言葉は“世界”になる。

だから、いつの間にか、
「期待に応えなきゃ」「失敗してはいけない」「ちゃんとしていなければ価値がない」

そんな“他人の基準”で、自分を見始める。

そんな中、ある先生に出会った。
その先生は、私にこう聞いた。

「で、お前はどうしたい?」

私は答えた。
「あのトップ集団の中で走りたいです。」

すると先生は、否定もしなかった。笑いもしなかった。

ただ、「じゃあ、そこへ行く練習をしよう。」と言った。 

遠征になると、私は緊張して眠れなかった。

すると先生は、こう言った。

「俺の家に泊まりに来い。寝る練習からやるぞ。」

衝撃だった。
走る練習だけじゃない。
“力を出せる状態”
まで含めて、育てようとしてくれた。

そして何より、あの先生は、
“親の価値観の外”
を見せてくれた。

「こうあるべき」ではなく、

「お前はどうしたい?」
を問い続けてくれた。

人は、管理され続けると、正解を探す人間になる。

でも、問いを与えられると、自分で生きる人間になっていく。

今、私は教師になった。
正直、うまくいかないことも多い。
ミスもする。怒られる。自信もなくす。 

でも、ひとつだけ思う。
あの時の先生みたいに、
“その子の世界を広げる大人”でありたい。

「こうしろ」だけではなく、

「お前はどうしたい?」

を、
一緒に考えられる教師でありたい。

人を型にはめるのではなく、人を解放できる教師になりたい。

あの先生が、私にしてくれたように。




「勝つことは普通じゃない。」

これは、
才能が必要とか、
特別な人しか無理とか、
そういう意味ではない。

“普通の流れのまま”では届かない、
という意味だ。

人は放っておくと、楽な方へ流れる。

疲れた。
暑い。
今日はまあいいか。
あとでやろう。
スマホ見よう。
このくらいでいいか。

それが普通。

だから、
県大会を突破する。
東海へ行く。
全国で戦う。

そういう世界は、
どこかで、
“普通の流れ”から抜け出さないといけない。

早く寝る。
補強を続ける。
食事を整える。
暑くても粘る。
周りがやめてもやる。
負けてもまた立つ。

地味。誰も見ていない。
しかも苦しい。

だから、覚悟がいる。
でも、ここで勘違いしてはいけない。

覚悟は、怒られて生まれるものではない。

「もっとやれ!」
「甘い!」
だけでは、一瞬動いても、人は戻る。

本当に変わる時は、

「なぜそこまでやるのか」

が、自分の中に生まれた時だ。

トップ争いをしたい。
自分を変えたい。
弱いままで終わりたくない。
仲間と勝ちたい。
悔しい。
見返したい。

理由は人それぞれ。

でも、
その理由が腹に落ちると、
人は変わり始める。

私は高校2年の県総体で、
1500mも5000mも負けた。

その時、先頭争いを見た。

苦しそうなのに、
前へ出る。
抜かれても、
また前へ出る。

同じレースなのに、
違う世界だった。

私は思った。

「あの景色の中に入りたい」
それが、私の理由になった。

だから指導者にできるのは、
無理やり走らせることではなく、

“景色を見せること”
なのかもしれない。

普通の先にある景色。
本気の世界。
悔しさ。
達成感。
苦しさの先。

それを見た人間は、時々、人生が変わる。

そして、本当に強い選手は、才能だけではなく、

「なぜそこまでやるのか」

を持っている人なのだと思う。




高校2年の和歌山県高校総体。 
私は1500m、5000mともに7位だった。
近畿大会には届かなかった。

その時、私はただ負けたのではない。
“景色の違い”を見せつけられた。

レース終盤。
先頭では、トップ争いが起きていた。

抜きつ抜かれつ。
苦しそうなのに、前へ出る。
また抜かれる。

でも、また前へ出る。

会場の空気が、その集団に集まっていた。

そして私は——
その争いを、周回遅れで見ていた。

同じレースなのに、
違う世界だった。
悔しかった。
情けなかった。

でも、その時、強烈に思った。

「自分も、あのトップ争いに加わる選手になりたい。」

今思う。
あの瞬間、自分の中で初めて“言語化”されたのだと思う。

ただ速くなりたいじゃない。
ただ入賞したいじゃない。

「あの場所で勝負したい。」

そこまで言葉になった。

すると不思議なことに、日常が変わり始めた。

練習の意味が変わる。
妥協の感覚が変わる。

「このくらいでいいか」が減る。

なぜなら、人は“言葉にした自分”に引っ張られるからだ。

結局、結果を出す者と出さない者の差は、

能力差だけではない。

「どんな景色を見て、どこに行きたいと決めたか。」
なのだと思う。

私は、周回遅れで見ていたあの景色に、心を奪われた。

そして、
「あそこに行く。」
と、自分の中で決めた。
人生が動き始めたのは、そこからだった。





久々に本を買って読んだ。
かなり刺さった。
でも同時に、

「いや、ちょっと出来すぎじゃない?笑」

とも思った。

内容は深い。

仏教。
経営。
苦しみ。
整えること。

特に印象に残ったのは、

「人は苦しみながら整っていく」

という感覚。

これはすごく分かる。

若い頃は、
気合いで突っ込めた。

でも50代になると、
気合いだけで行くと普通に壊れる。笑

だから最近は、
“頑張る”より先に、
「まず整える」が大事だと感じる。

ただ、
読みながら何度も思った。

主人公、
“平凡なサラリーマン”
って設定なんだけど——

いや、
絶対平凡じゃない。笑

だって、
悩んでいたら超すごい経営者に出会う。
しかも深い話をしてくれる。
さらに継続して面倒見てくれる。

現実のすごい人、
そんな暇ないから。笑

こっちは毎日、

「提出まだです」
「コピー機止まりました」
「保護者から電話です」

で終わるんだぞ。笑

だから途中で、

「これ結局、
良い師匠に出会えた人の物語では?」

とも思った。

でも逆に、
人生って“誰と出会うか”で本当に変わるのかもしれない。

苦しい時に、
どんな言葉を受け取るか。
誰と出会うか。
それで人は立ち直ったり、壊れたりする。

この本は、
「成功する方法」
というより、

“苦しみとどう付き合うか”

の本だった気がする。

整えても、
また苦しみは来る。

でも、
崩れ切らないために整える。

そこがリアルで良かった。

そして読後、
私は思った。

今の自分に必要なのは、
超一流経営者との出会いより——

“ちゃんと返信くれる人”

かもしれない。笑




 私は物心ついた時から左耳が聞こえない。

 しかし右耳は普通に聞こえるので、日常会話はできる。

だから周囲からは、「普通に聞こえている人」に見えると思う。

でも実際は、かなりエネルギーを使って生きてきた。
 片耳が聞こえない場合、単に「音量が半分」という話ではない。

どこから音が来たか分かりづらい。雑音の中で言葉を分離しにくい。
同時に複数人が話すと処理が難しい。“聞き逃さないようにする集中力”をずっと使う。という負荷が常にある。

 だから、「普通に会話できているように見える人でも、実は疲れている」ことが多い。

 特に私みたいに、授業、部活、寮、会議、保護者対応……“人の声”を大量に処理する仕事だと、無意識の消耗はかなり大きい。

 陸上では、その大変さを強く感じることがある。

トラックでは、内側にいるマネージャーの声が、反響や風、集団走で聞き取りづらい。

長距離は呼吸も荒い。だから「タイムを聞き逃すまい」と全神経を集中する。

車の運転でも同じ。助手席側からの話はかなり聞き取りづらい。

 でも周囲からは、「普通に聞こえている人」に見える。

ここが一番しんどいところなのかもしれない。

 私は長年、“全神経を集中して合わせにいく”ことで何とかやってきた。

でも最近思う。それは能力でもあるけれど、同時にかなり無理もしてきたのだと。

 しかも、「毎回説明するのも気が引ける」という感覚もある。

だから、「自分が頑張ればいい」で生きてきた。

 でも、人に合わせ続けると、脳はずっと緊張状態になる。

 最近感じていた、「ずっと緊張している感じ」「疲労感」「神経が張っている感じ」。

 それには、こういう“聞き取りへの常時集中”も関係していたのかもしれない。  

だから私は最近、 
「ちゃんとできているように見える人」ほど、 見えないところで、ものすごく頑張っていることがあるのだと思うようになった。



室伏広治。
日本選手権20連覇。
オリンピック金メダル。
そして研究者。
さらにスポーツ庁長官。

もう、
“人類の完成形”
みたいな人。笑

そんな室伏が、
毎日のように食べていた「最強食」が、

「トマト+レモン」

という、びっくりするほど地味な組み合わせ。

で、
それを箱根目指してる大学生に送ったら、

「実はトマト苦手で…🥲」

と返ってきた。笑

いや待て。笑

箱根は行きたい。
苦しい練習もやる。
夏合宿もやる。
雨の日も走る。
足の爪も死ぬ。
内臓もやられる。
でも——

トマトは無理。笑

なんか、
そこだけ急に5歳児。笑

もちろん、
苦手なものがあるのは普通。

でも、
強くなる人って、

「苦手なんです」
で終わらない。

「ちょっとやってみます」

がある。

この差、
めちゃくちゃデカい。

成長って、
才能より先に、

“自分の決めつけ”

を壊せるかだったりする。

・自分には無理
・向いてない
・苦手
・恥ずかしい

これを、
「まぁ一回やるか」
で越えられる人が、
最後伸びる。

ちなみに彼、
「加工したトマトはいけます」

とのこと。

もうそこまで来たら、
あと2歩。笑


人は、苦手なトマトではなく、
「自分で決めた限界」に負けている。



先日のロンドンマラソンで2時間切りを達成したトップ選手たちを分析すると、見えてくることがある。

それは、
「とんでもないスピードを持っている」
というより、

“最後まで落ちなかった”
ということ。

長距離で本当に問われるのは、スタート直後の勢いではない。
最初の1000mの軽さでもない。
前半“いい感じ”で走れるかでもない。

本当に問われるのは、苦しくなってから。

脚が重くなり、フォームが崩れ、呼吸が乱れ、「もうやめたい」が頭に出始めたときに、どれだけ“いつもの走り”を残せるか。

VO₂maxが高い。
乳酸閾値が高い。
ランニングエコノミーが良い。

もちろん大事。
でも、それはまだ“元気な時の能力”。
長距離はそこからが本番。

最近の研究では、
「疲れたあと、どれだけ能力が落ちないか」
に注目が集まっている。

疲れてもフォームが崩れにくい。
疲れてもペースが落ちにくい。
疲れても心拍が暴れにくい。
苦しくてもリズムを保てる。

この“落ちにくさ”を、
最近は「Durability(デュラビリティ)」=“疲労への強さ”として考えるようになってきた。

つまり、
ただ気合いで耐える話ではない。

「疲れても、能力を失いにくい力。」

だから練習も、ただキツい練習を増やせばいいわけではない。むしろ後半に強い選手ほど、地味なジョグを大事にし、ロングランを積み、低強度を雑にしない。派手なインターバルだけで後半に強くなるわけじゃない。

ここが面白い。
速く走る力は、才能に見える。
でも、落ちない力は、

日常に出る。
生活に出る。
積み重ねに出る。
ごまかさなかった日々に出る。

長距離とは、最初の速さを競う競技ではない。

「最後まで、自分を保てるか」を競う競技だ。

そしてこれは、走ることだけではない。

勉強も同じ。
部活も同じ。
人生も同じ。

元気な時に頑張れる人は多い。
でも、
疲れた時、
うまくいかない時、
怒られた時、
自信をなくした時に、

どれだけ自分を壊さずに前を向けるか。

そこに、本当の強さが出る。
強さとは、爆発力ではない。

「崩れにくさだ。」




教員という仕事は、
自分を削ってくる。

確認。
責任。
人間関係。
失敗。
正解のない毎日。

気づけば、
心も体もすり減っている。

それは、
どこか陸上人生に似ている。

もっと速く。
もっと粘れ。
もっと我慢しろ。
もっとやれる。

限界ギリギリまで、
自分を削る。

でも、
不思議なことに、
人はそこで終わることもあれば、
そこから強くなることもある。

紙一重。

追い込みすぎれば、
壊れる。

でも、
苦しさの中で、

「自分は何を大切にしたいのか」
「どういう人間でいたいのか」

を見失わなかった人は、
ただ強いだけじゃない、
“深い人”になっていく。

現役時代、
私は何度も、
「もう無理だ」
と思った。

箱根。
ケガ。
故障。
結果へのプレッシャー。

それでも、
その苦しさを通ったからこそ、
見える景色もあった。

今、
教員としても、
似たものを感じる。

苦しい。
理不尽もある。
削られる。

でも、
ここで、

「自分も同じように人を削る側になるのか」

それとも、

「苦しさを知ったからこそ、
人を潰さない強さを持つのか」

そこが分かれ道なのかもしれない。

削られること自体が、
悪ではない。

問題は、
削られた先に、

“何を残すか”

なのだと思う。

私は、
ここを乗り切りたい。