阿吽の呼吸というものがあります。

話さなくとも相手の言いたい、やりたいことがわかり、無言のうちに物事を進められる。

これは素晴らしいことで、一説には日本人特有の能力だと言われます。

おそらく、他人を思い遣る、この気持ちが強いからこそ備わった能力だと思います。

日本人以外でも思い遣る心を持った人はたくさんいます。

しかし、阿吽の呼吸が成立しないのは、思い遣る心を持つ人々がたくさんいないだけなのでしょう。

その意味で、日本人として生まれたのは大変幸運なことです。

LGBT問題は、古来より日本では特に問題視されていませんでした。そもそもLGBTなどと日本以外から入って来たことを表す言葉で語っていること自体が問題です。

しかし、日本においてもこの性的多様性は当たり前、当然のことではなかったはずです。

もし、同じ性別同士で家庭を持つことが一般的なら民族は自滅してしまいます。しかし、異性同士が大多数なのは明らかで、同性同士を認めたからといって国が滅ぶ訳が無いと暗黙で了解しています。結婚制度が現在と違っているとはいえ、子供を産み将来に繋げる、これは普遍的なことで、それ以外の性的多様性など全く問題ではない訳です。

ですから、そういう志向の人々がいても構わないし、社会の害悪などという発想もないし、差別意識もありません。

これをことさら全面に出し問題視するLGBT問題。

問題視すること自体が問題です。

問題視する必要がないからこそ、日本ではあらゆる志向を黙認して来た訳で、何も問題なかったのです。

この阿吽の呼吸、言わずもがなという思考を大切にしなければなりません。

女子トイレに女性を自認する男性が入る、これは言葉にすれば大変おかしい訳で、駄目なのは明らかです。

男性に見えれば男性な訳で、これは阿吽の呼吸の範疇です。

女性的志向を持つ男性が女風呂に入らないのは、入れば迷惑になる、この言わずもがな、思い遣りの思考があればこそです。

「言わなくともわかる」この思考を大事にして来たのに逆手に取って「禁止されてないからやっても構わない」こういった思考が蔓延すれば日本が崩れていきます。

LGBT問題は日本人の阿吽の呼吸を無視していこうとする第一歩である気がします。