他人に何かを求めてはならない。
求め方の知らない私は、そう願う程に、まるで炎が有機物を焼き尽くす様に、感情的になってしまう。他人を巻き込み、苦しめて得る救いに何の意味があるというか。
否、実を云うと本心はそれでも手にしたい。生きていることの、此処に居ることの ざらついた痛みを拭う為には、犠牲を厭わないと考えている自分も一方で存在している。だって私は、幸せそうに微笑む人々の背を見つめながら、ずっとそうして何もかもを諦めてきたのだから。
何処か遠くの方で笑い声が聞こえる。
幾人かの男女の、それは甲高く、同調し合った言葉や再びの笑い声が四方へ飛び交い、又は絡み合ったりして、やがていっそう遠く、小さくなっていく。
群衆とは何か。他人への依存,執着,連帯のいかがわしさを、私は知っている。孤独と向き合えぬ者の愚かしさと云ったらない。
彼等から見れば、私の様な存在は、奇人としか映らないのかもしれない。個である、ということ。何処に居ても、誰と居ても、決して忘れてはならない。
一方で思う。
私自身もしも、個を失い、群衆に染まってさえいたら、どれだけ平静で居られただろう、と考えることもある。
とりたてて思慮に耽ることもなく、とるに足らない哲学なんぞ放り、単純な生物として存在していたとしたら。
沈黙か。或いは、静寂か。
沈黙とは、何かの意思や作用によって押し黙るもの。静寂とは、真正なる無。此処に在るべきものは、白紙を黒く塗り潰したものなのか。それとも、ただの黒い紙なのか。いずれにせよ何も見えない、何も聞こえない。
叫んでみる。そこはかとなく、闇。もう一度、今度はいっそう強く声を出す。そこはかとなく、闇。更にもう一度、更にもう一度。
私は何かを求めているつもりはない。なのに、だのに、この声は意思とは反し、生命のエネルギーを振り絞った様にただひたすらに轟かせ続ける。
哭き喚く。
いっそ狂った様に笑ってもみる。
変わらない。我も、誰も、止められない。声なき声は無情に精神の霧中へと溶けていくだけ。
相変わらず何もかもが曖昧で、あれだけ喉を潰してしまいそうな程の哭く声も、猛り狂う声も聞こえぬままに、どれだけの時が経過しているのかさえも解らない。それは不確かで、漠然としていて。
昨日と今日の境界線が解らぬ様に、今日と明日の境界線も解らない。ただそれは一筋の線でしかなく、その一直線上を茫然と漂っているだけ。
夢から目覚めた筈が、実はまだ夢の最中だった、ということがある。
実は、私は目蓋を開いたつもりで、もしかしたらまだ開いていないのではないだろうか。さっきまでの慟哭も、単なる思い込みで、本当は掠れ声ひとつ漏らしていないのだとしたら。
例えば、スイッチひとつで何もかもが異なるものに変化するのだとしたら。
もしかして。すぐ傍に、否、離れていたとしても。誰かが其処に居るのだとしたら、気付いてくれることがあるのだろうか。
けれど、もしも居たとして、私の愚かしい姿をどう思うだろうか。嘘や秘密や偽善で塗り固められた、脆く醜い化身のこの相貌を、受け容れることなどあり得るのだろうか。
他人に何かを求めてはならない、やはりそう思う気持ちはある。ただそれは、拒絶されることへの畏怖ではないだろうか。私は、私が怖い。私を映す他人の鏡が怖い。例えば、両の腕を差し出し、我が心を、自身のありのままの総てをその腕でいだくことは、今の私には出来ない。本当は、誰かに抱き締めて欲しい。
そこはかとなく、闇。涙が止まらない。産まれたことも、いま此処に生きていることも、本当は、認めて欲しい。私には名前がある。私だけの名前がある。本当は、呼んで欲しい。
暗闇ではなく、本当は、光が、欲しい。
聞こえているか。
届いているのか。
この声が、この言葉が、この想いが。
もしも其処に誰か居るのならば、どうか、どうか、たった一言で構わないから、応えて欲しい。
コックピット。操縦菅。神経機能。
声をあげる。弦を擦り損ねた様に不安定でか細く、けれど、一点へと向かった確かな響き。
そこはかとなく、闇。沈黙か。或いは、静寂か。
それでも私は、涙を流しながら、さも嘔吐するかの様に、溢れんばかりの感情を携え、ただひたすらに唇を動かしていた。
[終]
求め方の知らない私は、そう願う程に、まるで炎が有機物を焼き尽くす様に、感情的になってしまう。他人を巻き込み、苦しめて得る救いに何の意味があるというか。
否、実を云うと本心はそれでも手にしたい。生きていることの、此処に居ることの ざらついた痛みを拭う為には、犠牲を厭わないと考えている自分も一方で存在している。だって私は、幸せそうに微笑む人々の背を見つめながら、ずっとそうして何もかもを諦めてきたのだから。
何処か遠くの方で笑い声が聞こえる。
幾人かの男女の、それは甲高く、同調し合った言葉や再びの笑い声が四方へ飛び交い、又は絡み合ったりして、やがていっそう遠く、小さくなっていく。
群衆とは何か。他人への依存,執着,連帯のいかがわしさを、私は知っている。孤独と向き合えぬ者の愚かしさと云ったらない。
彼等から見れば、私の様な存在は、奇人としか映らないのかもしれない。個である、ということ。何処に居ても、誰と居ても、決して忘れてはならない。
一方で思う。
私自身もしも、個を失い、群衆に染まってさえいたら、どれだけ平静で居られただろう、と考えることもある。
とりたてて思慮に耽ることもなく、とるに足らない哲学なんぞ放り、単純な生物として存在していたとしたら。
沈黙か。或いは、静寂か。
沈黙とは、何かの意思や作用によって押し黙るもの。静寂とは、真正なる無。此処に在るべきものは、白紙を黒く塗り潰したものなのか。それとも、ただの黒い紙なのか。いずれにせよ何も見えない、何も聞こえない。
叫んでみる。そこはかとなく、闇。もう一度、今度はいっそう強く声を出す。そこはかとなく、闇。更にもう一度、更にもう一度。
私は何かを求めているつもりはない。なのに、だのに、この声は意思とは反し、生命のエネルギーを振り絞った様にただひたすらに轟かせ続ける。
哭き喚く。
いっそ狂った様に笑ってもみる。
変わらない。我も、誰も、止められない。声なき声は無情に精神の霧中へと溶けていくだけ。
相変わらず何もかもが曖昧で、あれだけ喉を潰してしまいそうな程の哭く声も、猛り狂う声も聞こえぬままに、どれだけの時が経過しているのかさえも解らない。それは不確かで、漠然としていて。
昨日と今日の境界線が解らぬ様に、今日と明日の境界線も解らない。ただそれは一筋の線でしかなく、その一直線上を茫然と漂っているだけ。
夢から目覚めた筈が、実はまだ夢の最中だった、ということがある。
実は、私は目蓋を開いたつもりで、もしかしたらまだ開いていないのではないだろうか。さっきまでの慟哭も、単なる思い込みで、本当は掠れ声ひとつ漏らしていないのだとしたら。
例えば、スイッチひとつで何もかもが異なるものに変化するのだとしたら。
もしかして。すぐ傍に、否、離れていたとしても。誰かが其処に居るのだとしたら、気付いてくれることがあるのだろうか。
けれど、もしも居たとして、私の愚かしい姿をどう思うだろうか。嘘や秘密や偽善で塗り固められた、脆く醜い化身のこの相貌を、受け容れることなどあり得るのだろうか。
他人に何かを求めてはならない、やはりそう思う気持ちはある。ただそれは、拒絶されることへの畏怖ではないだろうか。私は、私が怖い。私を映す他人の鏡が怖い。例えば、両の腕を差し出し、我が心を、自身のありのままの総てをその腕でいだくことは、今の私には出来ない。本当は、誰かに抱き締めて欲しい。
そこはかとなく、闇。涙が止まらない。産まれたことも、いま此処に生きていることも、本当は、認めて欲しい。私には名前がある。私だけの名前がある。本当は、呼んで欲しい。
暗闇ではなく、本当は、光が、欲しい。
聞こえているか。
届いているのか。
この声が、この言葉が、この想いが。
もしも其処に誰か居るのならば、どうか、どうか、たった一言で構わないから、応えて欲しい。
コックピット。操縦菅。神経機能。
声をあげる。弦を擦り損ねた様に不安定でか細く、けれど、一点へと向かった確かな響き。
そこはかとなく、闇。沈黙か。或いは、静寂か。
それでも私は、涙を流しながら、さも嘔吐するかの様に、溢れんばかりの感情を携え、ただひたすらに唇を動かしていた。
[終]
この漆黒の正体も、行方も判らず、私は、せぇの、で目蓋を開いてみた。開いて初めて、身体中に恐怖が浸食していくのを肌で感じた。何故なら其処は、未だ漆黒の闇だったのだ。私は咄嗟に、自らの行為を疑った。目蓋を開く、という行為を本当に行ったか否か、ということだ。今一度考えてみよ。この不可思議な曖昧さ、朧、夢現。
――私は一体、誰なのだろう?
目覚めた時、リセットしていた現実の一切を、まるで衣服を一着一着 身に纏っていく様に、記憶を呼び戻していく。名前。性別。年齢。徐々に形成されていく。そうして過去の一切合切を取り戻した処で、今の自身の置かれている状況に辿り着く。あぁ、そうだ。この漆黒は夢でも何でもない。推理小説の結末でも読んでいるみたいに、散りばめられた無数の謎が一本の線へと結び付く。無から有へと立ち替わる瞬間。身体中の血管をざわざわと何かが駈け巡っていく。漆黒の正体を認めた私は、途端に丸裸にされた様な粗雑感に襲われる。
独りは恐い。無防備極まりない存在は、為す術もなく、誰かにすがりたくて堪らなかった。
けれど、もうずっとそうしていたものだから、声を出そうと思っても、思うだけで出てこない。
私は脳から指令を送り、神経機能の一部を動かしてみる。恐らくは指だ。鼓膜の奥の、何処か先の方で、ギギ、と何かが軋む音が聞こえる。
まるでロボットの様だ。古びた役立たずの機体。さしずめ、私はその中枢の、所謂コックピットにて、操縦管を齷齪(あくせく)と、押したり、引いたりしている。ギギ、ギギ、ギギ、ギギ―
軋む音。摂理に抗う様な、擦れ合う様な悲鳴。
――これが、“生きる”ということなのだろうか?
元来、動物の肉体とは、環境に応じて進化する様に出来ている。
視覚がまるで働かなくなった状況に対し、肉体だけでなく、心許なかった精神さえ、自ずと環境を本能的に受け容れようとしている気がする。いつの間にやら、この漆黒の世界が、今にも眼球が潰されてしまいそうなこの闇が、何故だか心の襞にスッと収まった様な妙な感覚を覚え始めた。全身を優しく包み込まれた様な、というより寧ろ、忌むべきこの姿をまんまと隠し仰せた気分と云っても良い。手も、脚も、頭も臓器も、暗闇を支配するものなど此処には何も無く、誰も居らず、ただ思考だけが辛うじて漂っているだけ。
私のちっぽけな存在などとるに足らない。何処で産まれたとか、どのような生き方をしてきたとか、容姿なんぞはもっての他。名前など名乗る意味も無い。男か女か、最早どちらでも良い。
きっと、始めから必要無かったのだ。産まれる必要も無かったし、生きている必要も無かった。だから、愛される必要も無い。何もかもが不毛で、だからこそ、この闇は、許されぬ私を従順なるままに消し去ってくれる。
そうさ、恐れることなど何もない。私など此処にも何処にも存在していない。此処にも、何処にも。
漆黒の正体。
それは何者でもない自分。
誰の鏡にも映っていない、意思を持った ただの塊でしかない私の世界。私だけの、世界。神経機能なども必要ないのじゃないか。手や脚を動かしたとてまるで意味をなさないのだから、指令を送る必要さえもない。いっそコックピットさえも神聖なる闇に溶解してしまえば良い。どうか、意思だけを残し、私の総てを解き放ってくれないか。
誰かの鏡に触れてしまえば、私は毛を逆撫でされた動物みたいに感情が噴き出してしまう。
他人を傷付けてしまう。傷付けたくなくとも、この手も、脚も、止められない。操縦士の意思など意味を持たない。
――謂うなれば、化身。
脆くて醜く、嘘や秘密や偽善で塗り固め、私は私を護ろうとしている。
ヘドロを掻き集めては身体中に塗りたくる。その繰り返し。嘘を吐き、秘密を纏い、偽善を曝す。爛れ落ちるそれらを拾ってはまた塗りたくる。そうして自らの存在価値を奪い尽くして、私は安堵の息を漏らす。
これで誰も近付けまい。
[後編へ]
――私は一体、誰なのだろう?
目覚めた時、リセットしていた現実の一切を、まるで衣服を一着一着 身に纏っていく様に、記憶を呼び戻していく。名前。性別。年齢。徐々に形成されていく。そうして過去の一切合切を取り戻した処で、今の自身の置かれている状況に辿り着く。あぁ、そうだ。この漆黒は夢でも何でもない。推理小説の結末でも読んでいるみたいに、散りばめられた無数の謎が一本の線へと結び付く。無から有へと立ち替わる瞬間。身体中の血管をざわざわと何かが駈け巡っていく。漆黒の正体を認めた私は、途端に丸裸にされた様な粗雑感に襲われる。
独りは恐い。無防備極まりない存在は、為す術もなく、誰かにすがりたくて堪らなかった。
けれど、もうずっとそうしていたものだから、声を出そうと思っても、思うだけで出てこない。
私は脳から指令を送り、神経機能の一部を動かしてみる。恐らくは指だ。鼓膜の奥の、何処か先の方で、ギギ、と何かが軋む音が聞こえる。
まるでロボットの様だ。古びた役立たずの機体。さしずめ、私はその中枢の、所謂コックピットにて、操縦管を齷齪(あくせく)と、押したり、引いたりしている。ギギ、ギギ、ギギ、ギギ―
軋む音。摂理に抗う様な、擦れ合う様な悲鳴。
――これが、“生きる”ということなのだろうか?
元来、動物の肉体とは、環境に応じて進化する様に出来ている。
視覚がまるで働かなくなった状況に対し、肉体だけでなく、心許なかった精神さえ、自ずと環境を本能的に受け容れようとしている気がする。いつの間にやら、この漆黒の世界が、今にも眼球が潰されてしまいそうなこの闇が、何故だか心の襞にスッと収まった様な妙な感覚を覚え始めた。全身を優しく包み込まれた様な、というより寧ろ、忌むべきこの姿をまんまと隠し仰せた気分と云っても良い。手も、脚も、頭も臓器も、暗闇を支配するものなど此処には何も無く、誰も居らず、ただ思考だけが辛うじて漂っているだけ。
私のちっぽけな存在などとるに足らない。何処で産まれたとか、どのような生き方をしてきたとか、容姿なんぞはもっての他。名前など名乗る意味も無い。男か女か、最早どちらでも良い。
きっと、始めから必要無かったのだ。産まれる必要も無かったし、生きている必要も無かった。だから、愛される必要も無い。何もかもが不毛で、だからこそ、この闇は、許されぬ私を従順なるままに消し去ってくれる。
そうさ、恐れることなど何もない。私など此処にも何処にも存在していない。此処にも、何処にも。
漆黒の正体。
それは何者でもない自分。
誰の鏡にも映っていない、意思を持った ただの塊でしかない私の世界。私だけの、世界。神経機能なども必要ないのじゃないか。手や脚を動かしたとてまるで意味をなさないのだから、指令を送る必要さえもない。いっそコックピットさえも神聖なる闇に溶解してしまえば良い。どうか、意思だけを残し、私の総てを解き放ってくれないか。
誰かの鏡に触れてしまえば、私は毛を逆撫でされた動物みたいに感情が噴き出してしまう。
他人を傷付けてしまう。傷付けたくなくとも、この手も、脚も、止められない。操縦士の意思など意味を持たない。
――謂うなれば、化身。
脆くて醜く、嘘や秘密や偽善で塗り固め、私は私を護ろうとしている。
ヘドロを掻き集めては身体中に塗りたくる。その繰り返し。嘘を吐き、秘密を纏い、偽善を曝す。爛れ落ちるそれらを拾ってはまた塗りたくる。そうして自らの存在価値を奪い尽くして、私は安堵の息を漏らす。
これで誰も近付けまい。
[後編へ]
