2011年3月17日に開設しました東北魂義援金ですが、今回は、

○2014年3月10日
福島県 600万5228円

を、震災孤児等支援のための寄附口座「東日本大震災ふくしまこども寄附金」に振込させて頂きました。

2014年3月10現在、皆様のご協力により、合計372,491,175円 東日本大震災復興支援金として届けさせて頂きました。

感謝の言葉しかありません。

本当にありがとうございます。

これまでは「東北の復興の為に、被災者の支援の為に」という形でしたが、2012年10月より「宮城・福島・岩手の震災孤児・遺児」の支援を目的としてご利用させて頂きたく思います。

皆様からお寄せいただいた義援金は、サンドウィッチマンと株式会社グレープカンパニーが責任を持って「宮城・福島・岩手の震災孤児・遺児支援の為に」各県庁に直接届けます。

■皆様からお寄せいただいた義援金詳細
○2011年5月26日届出
青森県 3000万
岩手県 6000万
宮城県 9000万
福島県 5722万2544円
茨城県 3000万
千葉県 3000万
計 297,222,544円

○2012年3月2日届出
宮城県 1700万
岩手県 1700万
福島県 1700万
計 51,000,000円

○2012年3月30日届出
宮城県 200万
岩手県 200万
福島県 200万
計 6,000,000円

○2012年10月8日 
宮城県 686万6054円

こちらの義援金は宮城県庁より震災孤児等支援のための寄附口座「東日本大震災みやぎこども育英募金」に振込させて頂きました。

○2013年5月1日
岩手県 539万7349円
こちらの義援金は震災孤児等支援のための寄附口座
「いわての学び希望基金」に振込させて頂きました。
東北魂義援金口座は、以下のようになっております。

銀行名:三菱東京UFJ銀行

支店名:目黒支店

種類:普通

口座番号:0133179

口座名義:東北魂義援金 (トウホクダマシイギエンキン)

※大変申し訳ございませんが、振込手数料はご負担をお願い致します。

※義援金詐欺防止の為、お振込みの際は、銀行名、支店名、口座番号、口座名義を必ずご確認ください。

これからも東北魂チャリティーグッズの販売やチャリティーライブ等の活動を通して支援活動を続けていきますので、今後ともご協力何卒宜しくお願い致します。


東日本大震災から明日で3年が経とうとしています。

当時、最前線を耐え抜いた方々の話は沢山本にもなっています。
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『津波をこえたひまわりさん~小さな連絡船で大島を救った菅原進~』

菅原進さんは29歳から40年以上、気仙沼と大島を行き来する連絡船『ひまわり』を運転していました。

定期船と違い、ひまわりは海のタクシーとして『ひまわりさん、お願いします』と言われれば早朝でも深夜でも気持ち良く走ります。

そんな菅原さんとひまわりが震災にあい、目の前に津波が迫ります。


波がとつぜん立ちあがりました。真っ黒い林が横並び一列になって、せめてくる感じです。

がんばったけれど、ここで終わりのようです。海に飲みこまれるよりしかたありません。

菅原さんが救命胴衣に手をのばしました。が、手がとどきません。なんとか手はふれるのですが、引きよせることができないのです。波との戦いは、一秒のすきもゆるされません。舵取りのハンドルから手をはなすのは命取りです。

『ええい、こんな物、いらない』

菅原さんは、救命胴衣をあきらめました。

『ひまわりよ、おれたちは心をひとつにして、やってきた。いまは、命もひとつだ。死ぬも生きるもいっしょだぞ。ひまわり、行くぞ!』

波は、そそり立っているように見えます。
菅原さんは、覚悟を決めて、全速力で波に向かいました。ひまわりが、波を登っていきます。

そして津波と勝負した菅原さんとひまわりは、震災二日後から大島の人の足として、お金もとらずに動き出します。

三月二十二日に生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた女性を見つけた菅原さんは、船を待つ沢山の人に言います。

『みんなにお願いがあります。この赤ちゃんを優先して乗せてやるけど、ゆるしてほしいんだ。おれは、えらい人も有名人も、みんな同じに乗ってもらいたい。でも、この赤ちゃんは、おれたち大人が守ってやらないと、つぶれてしまうほどふにゃふにゃなんだ。特別あつかいさせてくれ。』

船内はぎゅうぎゅうづめなのに、赤ちゃんの周りには、すきまがあります。大変な中、産まれてきた赤ちゃんを、みんなが守ろうとしています。

ひまわりが大島目指して走っていきます。
赤ちゃんのふるさとになる大島です。


これはほんの一部ですが、この本は漢字も少なく、子供にも読める本です。

学校の図書館などに置いてほしい一冊です。
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『家族のもとへ、あなたを帰す~東日本大震災犠牲者約1万9000名、歯科医師たちの身元究明~』

東日本大震災による死者・行方不明者は2012年7月1日の時点で一万八七七三人。

そのうち、約一万六○○○人の犠牲者の身元が確認されている。
この膨大な数の犠牲者が、名前を取り戻し、家族のもとに帰ることができた裏側に、献身的な身元確認作業を続けてきた数多くの歯科医師たちの存在があったことは、意外に知られていない。

この本は地震発直後の混乱の中、硬直して固く閉じた遺体の口を、がれきにもまれて傷ついた遺体の口を、炎に焼かれて炭化した遺体の口を、寒さでかじかむ手で開き、一体一体ていねいに歯科所見をとり続け、なんとしても犠牲者の身元を明らかにして家族のもとに帰さねばならないという、歯科医師としての使命感からの証言がつづられている。


震災直後のこの時期は、まだご遺体も新しいため、すぐに身元が判明して遺族に引き取られていくことも多かったです。ただ、所持品だけで判断するのは危険だと痛感したケースもいくつかありました。
たとえば、カバンを握ったまま亡くなっているからといって、そのカバンがその人のものだと断定することはできません。必死で逃げている最中に、前にいた人のカバンを掴んだ可能性もあるからです。
体操服の名前もそうです。その日に限って体操服を忘れて、友だちのものを借りていたという生徒さんもいたと聞いています。
もし、ご遺体を取り違えでもしたら、その方は永遠に家族のもとに帰れなくなってしまいます。
それは絶対にあってはならないことなのです。


身元が判明したご遺体は順々に、体育館の舞台の上の台に上がってこないご遺体も、たくさんありました。
今も忘れられないのは、五、六歳くらいのかわいい男の子です。亡くなっているけど、とっても綺麗な顔をして…。
その子はいつまでたっても体育館の床の上にいました。
一緒に出勤した同僚の矢島先生が、ぽつりとこういいました。
『あの子の身元は、まだわからないみたいですね。きっとお母さんも、このなかにいるんでしょう』
そうなのかもしれない、と思いました。あれだけきれいな顔をしていたら、家族ならすぐに自分の子どもだということがわかるはずです。でも、いつまでたっても体育館の床の上にいるということは、ご家族も一緒に犠牲になっている可能性が高いのではないかと。
そのとき、家に置いてきた息子のことを思いました。
一二日の夜、現地への出勤前に、荷物をとりに大学から一度家に戻りました。荷物を持って出かけようとすると、小学校三年生の息子が私の足にまとわりついて、離れないのです。
振りほどこうとすると、海外へ出張するときでさえも泣いたことのない息子が、突然泣き出して、
『ママ、死んじゃうの?』
といったのです。息子も、私が危険な場所に行くことを、薄々感じとっていたのでしょう。
『絶対死なない。ママは地震のところへお仕事で行かなきゃいけないの』
そう言い聞かせたのですが、息子は離れようとしません。泣きながら、
『なんで行くの?』
『なんで行くの?』
と何度も聞くのです。
出勤するためには、この子を振り払わないといけないんだな、と…。それはつらい思いでした。
体育館の床に寝ているあの子のお母さんも、きっと『この子のためには絶対死ねない』と思っていたんだろうな。そう思って本当に悲しくなりました。


歯科所見による身元確認というのは、本人であるということを照合するだけではなく、本人ではないことを明らかにするのも重要な目的です。『この人はあの人と違う』と誰かが言ってあげないと、たぶん遺族はそこから先に進めないと思うのです。
お医者さんは『亡くなっています』ということと『なぜ亡くなったのか』ということはいってあげられますが、『これは誰なのか』ということまでは、たぶん特定できないと思います。それは我々歯科医師の役目だと思うのです。
だから僕ら、遺体安置所でねばるわけですよ。ねばる理由はそこなんです。
多分この仕事は、人間の最後の、尊厳という部分に関わっているのではないかと、今回は本当にそう思いました。


いわきから来たという若い警官が、歯科所見をとっている僕らのところに来て『津波警報が出ましたので、逃げて下さい!』と言ったのですが、よく考えると本当に大津波が来たら、我々を迎えにきているようでは逃げ遅れてしまうはずです。彼らはずっとパトカーのそばにいますから、本当はそのまま逃げた方が早いし、確実に助かります。だから僕はこう言いました。
『お前ら、俺たちのことなんか気にしなくていいから、何かあったらすぐ逃げろ』
そうしたら、その若い警官が、
『いや、絶対に、命かけて守れっていわれてますから』
そう答えたんです。きっと、心のなかの不安を押し殺して、そう言ってくれたのだと思います。
結局、出動した歯科医師たちに対する一番の安全担保は、福島県警でした。
本当に今でも、福島県警はすごく頑張ったと思っています。不安な気持ちで出動する歯科医師会の会員たちも、そういう若い警官たちの『命かけて守る』という一生懸命な姿勢に接することで、不安に耐えたのです。
だから一度出動した人は皆、『また出るよ』と言ってくれた。
『福島県警に守られてもダメだったら、それはもうあきらめる』というのが、本音だったのではないでしょうか。

これも一部ですが、なかなかメディアでは伝えられない、最前線の歯科医師たちの闘いを知ることができます。

地震はいつどこで起きるかわかりません。

こうした経験を今後の防災に活かしていくことが、亡くなった方達への弔いにもなるのではないでしょうか。