第二章 カウンターカルチャーの成功と失敗


 テーゼとしてのモダンな前世代が、資本主義の恩恵を受ける形となった大量生産、大量消 費は階級に関係なく人々に平等に機会を与えた。そこに物の価値の差異は存在するが、それでも多くの人々が家を持てるようになり、安定した暮らしを送れるようになった。

カウンターカルチャーの主張は、大量生産、大量消費、順応主義、画一的、それらへの批 判、そしてロックミュージック、ドラッグなどがあり、「LOVE&PEACE」を掲げ、自由、 個性、自然回帰、循環型社会を訴えた。

 この二つを対立している、テーゼとアンチテーゼだとして、一度現代を見てみるとどうだろうか。もちろん 1960 年から60年が経ち、国も違うこの日本を考察しても意味はさほどにないが、私個人としては、テーゼとアンチテーゼ、どちらの面も併せ持っているのではないかと感じている。現代日本でも大量生産、大量消費の図は変わらない。しかしアンチテー ゼとしてのカウンターカルチャー的な面がないかといったらそうでもない。日本社会でもコミューン的な共同体があり、その中では地域通貨が扱われている場合もあるし、大量消費社会のゴミは世界的な問題となり、「持続可能性」という言葉がテレビやラジオといったメディアからも見聞きするようになった。他のファッション、音楽といった娯楽も現代では多様化している、企業の求人募集の広告では「クリエイティブな人募集」という言葉をよく目にするようにまでなった。

 このようなことから資本主義という土台は変わらないが、モダンな親世代と、カウンターカルチャーはジンテーゼを見つけたのではないかと考える。言い方を変えてみるとそれは、 スクエアとヒップの融合である。

 この章では「テーゼ」をスクエア、白人中流階級的価値観として、「アンチテーゼ」をヒップ、カウンターカルチャー的価値観とする。1960 年代のアメリカでその二つがジンテー ゼとして混ざり合った過程を探り、カウンターカルチャーが社会に与えた影響を考察する。 

 

ヒップとスクエアの融合

 

 「Hip」という言葉は前章でも述べた通り「Cool」と同義語である。しかし、どうあったらクールな人となるのだろうか。クールは移り変わりが早く、いつも同じものでは無い。

 ジェセフ・ヒースとアンドルー・ポターの『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』の中でクールについてこのように述べている。

 

局地財とはそういうものだが、クールであることの価値は他者との比較から生じている。 人がクールになれるのは、他の人たちが̶実際には、ほかのたいていの人たちが̶クール ではないからだ(もっと具体的には、何かがクールになるためには、ほかがお粗末でなければならない)。だが、時間を超えた継続性を重視する従来の地位階層とは違って、クー ルはたゆみない非順応主義の追求に基づいている(後略)。【ジェセフ・ヒース&アンドルーポター(2004)訳 栗原百代(2014)P.221】

 

 ファッションでそのことを考えればわかりやすいだろう。スクエアである中流階級のお金持ちへの憧れを持っている人々にとって、ブランドから毎シーズン発売されるニューモデルの商品を常に持っていることは、クールであってステータスでもあった。その価値観の中では、最新のものでなくなった途端に、ブランド品であっても、その商品はクールではなくなり、その所持者の評価は下がっていく。

 ヒップの場として存在するストリートでは、どこかの誰かが、自分を表現する手段として独自性を追求した結果、それが流行りとなることが多々ある。ヒッピーであっても、なくても、みんなが同じ服装をしているというのは没個性的であり、その格好を選ぶということは、順応主義に踏み込むということになる。そのために誰しもが新しいスタイルを創造するのである。

 ブランド品を追う人々であっても、ストリートの人々であっても、クール、ヒップというのは全く新しものを指す場合が多く、誰も持っていないからこそ価値を見いだせるのである。そして流行りを作り出す人々はクールな人物と考えて良いだろう。しかし、流行りの蔓延がまたクールを没個性的にするのである。みんなが同じ格好をしていたら、それはクールでもヒップでも無いのである。そのため「クール」や「ヒップ」というのは資本主義のサイクルを回す良い燃料で中心的イデオロギーなのである。

 1950 年代にエルヴィス・プレスリーがロックを歌った時には黑人のリズム感に白人が歌っていることは白人中流階級に悪影響を与えるとされて多くの人々に批判された。

 ベビーブーマーたちにとってロックは新しい音楽であって、それを聞いているということがモダンへの反抗を表現するということでもあった。そして資本家はそれがどんなものであっても、そこに需要があれば、物を供給をする生き物なのである。1960 年代以降「反逆」というものは商品にされてきた。

 どんなに大量生産、大量消費社会を批判して、ヘンプ素材の服を作ったり、個人経営のお店から購入しても、売れるとなったら企業は目をつけて生産を始める。大量生産することで低価格で販売することが可能になり、多くの人が価格につられて企業から購入することを選ぶのだ。再び誰かがその構図を批判して、新しいものを作っても資本主義は同じことを繰り返すだけである。

 このように考えてみると、ヒップのカウンターカルチャーは資本主義の大量生産、大量消費というシステムの構造を批判したが、そのことに意味はなかったのではないかと思えてくるだろう。しかし、彼らの主張は前世代に対して無益だったのだろうか。彼らが実際にしたことは、それが意識的にか、無意識にか、資本主義システムの中に彼らの領域を獲得することに成功したのではないだろうか。

彼らが理想としたのは「愛と平和の世界」という抽象的な世界であったが、その時代背景を覗いてみると、冷戦、ベトナム戦争、公⺠権運動、他にも様々なマイノリティ運動があり、 混沌とした世界であった。そのようなことから、まだ大学生だった彼らが、笑顔で様々な人種が混ざり合える世界を求めることは不思議なことでは無い。そしてベビーブームの影響 で、そのような抽象的な世界を支持する人々の数が社会に影響を与えるほどになっていたのである。これはアメリカ社会に限った話ではなく、戦後から世界的に人口は増加してお り、1960 年代にカウンターカルチャーの影響を受けて様々な反体制運動が大学生たちによって巻き起された。そしてその世代のニーズを獲得することが資本主義にとって重要だったのは当然のことだろう。竹林修一は『カウンターカルチャーのアメリカ 希望と失望の1960年代』でカウンターカルチャーの立場についてこのように述べている。

 

こうして考えると(中略)ヒッピーたちはジョンソン政権やニクソン政権を打倒したかったのではないし、虚無主義に陥ったのでもなかったし、ユートピア思想に色めき立ったのでもなかった。カウンターカルチャーはむしろ、アメリカの権力体系の中枢である資本主義システムのなかに自領域を獲得することに成功したのだ。そうだとすれば、カウンター カルチャーは反権力というよりは、権力とある種の親和性を持っていたことになる。それは既存システムに追従するという意味ではなく、主流的価値観に方向転換を迫るような形で発展していった。カウンターカルチャーは「権力の中の反権力」というべき微妙な立ち位置にいたのである。【竹林修一(2019)P.166】

 

 彼らが目指した⺠衆の意識改革は夢物語であったが、反逆の証でもあったロックミュー ジックなどはCDとなり、商品として売り出された。彼らが望んでいたことかはわからないが、そのようにして彼らは、資本主義内に自分たちカウンターカルチャーの領域を獲得することに成功したのである。

大量消費社会をテーゼとして、カウンターカルチャーの「反逆」をアンチテーゼとするのならば、ジンテーゼとして大量消費社会の中で「反逆」が商品として確立したのである。

 

カウンターカルチャー

 

 本章の内容をまとめると、資本主義にとって、クールというのは誰もが特別であると思いたいがための購入意欲を刺激する中心的イデオロギーである。カウンターカルチャーのヒップという価値観を資本主義が取り込むのは必然のことであり、よってカウンターカルチャーは資本主義というシステム内にヒップ的な領域を獲得することに成功した。

 しかし、このことを「成功」と言ってしまったら彼らは結局何だったのかという話になる。

 彼らが批判していた大量消費社会を作った資本主義システムに取り込まれて、彼らが求めていた自然への原点回帰、循環的生活などの「ゆたかな暮らし」は「物質的豊かさ」に降ったということなのだろうか。

 私はカウンターカルチャーが、その世代にとって「クール」だったのではないかと考える。

 カウンターカルチャーに限らず、どのような政治的活動にも大きな運動になっていくほど、流行りに乗って参加する者がいるからだ。ヒッピームーブメントに参加していた大多数にとって、そのムーブメントはただのお祭りごとだったのである。

 カウンターカルチャー的批判は社会に大きく広がっていったが、それはベビーブームの影響で数に物を言わせていただけであった。大多数の彼らにとっては放浪、ドラッグ、セックスなどと言ったものは、その時代の流行り「クール」であり、親へ反抗する手段としての若者の過ちと考えていたのである。

 60 年代という時代の変革期と重なったがために、どの世代でも存在する親への反抗が、 資本主義システムへの反抗と重なったのである。上でも見たようにスクエアであっても、ヒップであっても、誰しも特別(クール、ヒップ)でありたいのは当然のことである。そんな親世代が画一的であることを選ばなければならなかったのは、システムに洗脳されたとか、 順応主義であったとかではなく、貧しさにとって物質的豊かさは、心身の健康と幸福につながるからである。

 その子供である、カウンターカルチャーの物質的豊かさへの批判は、生活様式への提案でもあり、物質的豊かさありきでなければなりたたないのである。その批判には解決策と言える具体的な提案が含まれていなかったのである。これが彼らが政治的運動ではなく、「メイ ンストリームへの対抗」とサブカルチャーの一種と呼ばれていた所以であるだろう。カウン ターカルチャーはもともと成功、失敗と判断される前に何かを提案していた訳ではないだろう。それまでを生き抜いてきた人々にとって、彼らの主張は夢物語を語っていただけなのである。

 カウンターカルチャーの運動の成果は何度も繰り返しになるが彼らが資本主義内に自分たちの世代の領域を獲得したこと、彼らが社会に出て重役のポストに就くことでカウンタ ーカルチャー的思想が社会にも受け入れ始められたことだろう。彼らの運動はその世代の流行りだったのである。

 彼らカウンターカルチャーが前世代と比較して特別であったところは、アメリカ国内で初めて「物質的ゆたかさ」の上に育った子供達であった。ここに前世代との「ゆたかさ」という言葉に差異があることを確認できる。次章では「ゆたかさ」とは何かを考察して、ジェレ ーション間に生まれた差異を確認していく。