第一章 カウンターカルチャーの土壌


 先にも述べたが、戦後、1960 年代にカウンターカルチャーが社会にインパクトを与えることを可能にしたのは、国の教育重視政策、ベビー・ブーム、そして⻑期にわたる好景気が挙げられる。これらの要因のおかげでアメリカでは高等教育を受けた中流階層が増え、社会に一定の影響力を与えるだけの人口を有していた。

 この章では彼らが盛んに活動していた60 年代の前、50 年代のアメリカ社会はどのようなものだったのであるか、また、彼らが活動する土壌であったと同時に、前世代が作り上げて手に入れたアメリカ繁栄の時代でもあった。その時代がどのようなものであったのかを探っていく。

 

1950 年代のアメリカ

 この章では、19 世紀アメリカ文学研究者の佐藤成男の論文『カウンターカルチャー前夜 アメリカの 1950 年代についての一考察』を主要参考文献として扱う。

 50 年代アメリカ社会の在り方を規定した最大の要因は、ソ連(共産主義)との冷戦であった。

第二次世界大戦後、アメリカは核の独占により軍事面で世界トップに立っただけでなく、 経済、テクノロジーの面でも世界唯一の超大国となり、アメリカ国⺠は未来への自信にありふれていた。

 しかし、1949年9 月にソ連が核実験に成功したことにより、アメリカの核開発の技術、核の独占に終止符が打たれ、アメリカの軍事面での立ち位置が崩壊を始めた。またその年の10 月にはアジアに共産党が政権を握る中華人⺠共和国が成立した。そして翌年の50年6月に北朝鮮が38度線を超えて韓国へと進軍した。11 月には中国軍が北朝鮮軍に加勢し、米軍主体だった国連軍とぶつかることとなる。

 これら一連の流れでアメリカ国内では「自由⺠主主義の国アメリカ」という正義と、「個人の自由を蝕む共産主義」という悪の対立の図式が成立し、反共産主義のムードが高まっていく。

 反共産主義の一例としては「マッカーシズム(赤狩り)」が挙げられる。

 非米活動委員会が45年に常設委員会に昇格し、共産主義やリベラル左派を「非アメリカ的、政府転覆的」として映画界や政界を取り締まり、反共産主義ムードの中で大きな役割を果たした。

 ジョセフ・マッカーシーはもともとウィスコンシン州選出の共和党の上院議員であり、それほど目立った人物ではなかったが国⺠の反共産主義ブームに迎合して、50年2月に「国務省に所属する共産党党員のリストを持っている」【佐藤成男 (2014)】と告発を行い、⺠主党政権を批判した。マッカーシーの告発は演説をするたびに数が変化し、あやしいものであったが国⺠の反共産主義感情が味方して、彼を批判するものは「共産主義者」として扱われた。

最終的にはマッカーシーの不正が陸軍への公聴会で暴かれるのだが、アメリカでの共産主義への恐怖心が伺える。

しかし「反共産主義」ムードは「反戦」ムードへと移り変わって行く。なぜならアメリカ国内での「反共産主義」ムードは、そもそも第 33 代大統領アルバン・W・トルーマンの「共産主義との戦いは、世界の自由と⺠主主義の体制を守る」というソ連への共産主義封じ込め政策の宣言(1947 年)から始まったからである。これが「自由で⺠主主義の国、正義のアメリカ」と「個人の自由を侵害する、悪の共産主義」の成り立ちである。

 アメリカの 1950 年代の政策は自分の首を絞める事となる。

 1950 年代初頭グアテマラでは社会主義的な政策が採られていた。アメリカはグアテマラが自分たちのお膝元、中央アメリカで共産主義国化することを案じて転覆を計画する。当時の大統領アイゼンハワーは中央情報局(CIA)を使いグアテマラの反政府軍を支援して首都に侵攻させ、最終的に転覆に成功したが、その後アメリカが全面的に支持したアルマス政権は独裁体制となった。

 このようにアメリカ政府が支援する反体制派はアジアや中央アフリカ、南アフリカなどの国々では「打倒、共産主義」という名目で軍部による独裁政権化する傾向があった。そこでは、その国の政権がどんなに腐っていようとも、反共産主義的であれば、共産主義よりは良いという方針が貫かれていた。これらはアメリカが自ら言っている「⺠族自決の原則とトルーマンの⺠主主義を守る戦い」という共産主義との戦いの原理原則を無視しており、アメリカ政府へのアメリカ国⺠の批判は強くなっていった。

 50 年代のアメリカを包摂する社会、国際情勢はソ連、共産主義との冷戦で決して明るい時代であったとは言えないが、アメリカ国⺠の生活面では明るいものであったと言えるだ ろう。

まず、第二次世界大戦の影響での好景気、(確かに終戦の翌年の46年のGDP成⻑率はその前年度から-11.1と下がってはいるが、その先20年は右肩上がりとなっている)そしてテクノロジーの進化が根拠として挙げられるだろう。1949 年に元海軍技師のウィリアム・ レヴィットによって、低価格の住宅が発売された。従来の生産方法では、生産物をベルトコンベアの上に乗せて、その横に労働者がおり、分担作業を行なっていた。しかし、住宅となると大きすぎるためにベルトコンベアの上に乗せることは不可能であった。そこでレヴィットが発明したのが住宅を固定して、労働者を住宅の代わりに動かすということであった。 そして最後は出来上がった部品を現場まで運び、組み立てるだけである。レヴィットが開発した住宅のベルトコンベア方式は、作業時間を短縮させただけではなく、熟練の職人の技術も必要としないのである。

 

(前略)そのおかげで驚異的なペースで住宅を建造できた。平均的な業者が年に五軒しか建てられない時代に、レヴィットは一日あたり三〇軒も建てていた。しかも、どこにも負けない価格で提供した。一九四九年に発売となった住宅(無料のテレビと洗濯機つきで、たったの六九九九ドル)は初日で一四〇〇戶を売り上げた。【ジェセフ・ヒース&アンドルーポター(2004)訳 栗原百代(2014)P.255】

 

 ベルトコンベア方式の発明で一戶建て住宅の価格は大幅に下がった。それによって人々は郊外に安価で一軒家を立てることができるようになった。そしてその近くには大型ショッピングモールが作られ、クレジットカードが誕生し、アメリカ国⺠は戦後の平和と経済成⻑の果実を堪能した。

 このような時代がアメリカの50年代であり、また、カウンターカルチャーの親世代が世界恐慌、第二次世界大戦に耐えてようやく手に入れた「ゆたかさ」であり、アメリカの繁栄である。

 様々な苦い体験をした親世代に、これ以上の甘美など存在し得なかったのである。

 

カウンターカルチャーの精神


 カウンターカルチャーは逆説的にフロイトから影響を受けている。

 

もしもフロイトの存在がなかったなら、おそらくカウンターカルチャーの思想が花開くことはなかった。(中略)フロイトによれば、文明とは基本的に自由へのアンチテーゼで ある。文化は人間の本能を服従させたうえに築かれる。したがって文明の進歩は、人間の根底にある本能的な性質に絶えず抑圧を加え、それに伴って幸福を味わう能力を低下させることで達成されるという。【ジェセフ・ヒース&アンドルーポター(2004)訳 栗原 百代(2014)P.46】 

 

 フロイトによれば人間の潜在意識は三つの部分に分かれて構成されている。一つ目に、イド(インナーチャイルド)無意識の部分であり、快楽原則に支配されている部分。次に、自我(エゴ)意識や理性といったもので、イドにある種の秩序と抑制を加える部分。最後に、 超自我(スーパエゴ)がある。超自我はイドと同様に無意識であるが、本能的快楽に羞恥心 や罪悪感を結びつける。また、フロイトは本来の人間の姿はイドの部分であり、それは暴力的な存在であるとした。

 イドとは、価値を尊重することも、道徳的精神に縛られることもなく、快楽と欲望に忠実である。そのため人間が文明を築くためには、私たちが本来持っている、快楽への欲望探求をルールなどで抑圧しなければ成り立たないということになる。そのために私たちは、安全な文明を築き、恩恵を受ける代償として、本来持っている快楽主義を捨てたのである。

 社会をこのような衝動の抑制(ルール)の上に築かれた文明とするのなら、文明の発展とは、快楽主義者という本来の人間の姿から、人間を狂わせていく、神経病のプロセスなので ある。

 この点は、子供から大人への成⻑を考えればわかりやすいだろう。誰しも初めは知識も規則も知らない赤子での状態で生まれるが、家庭内や学校などで社会的ルールを無意識的あるいは意識的に学んでいく。この社会的ルールを学ぶことで「自我」が育っていき、そのルールを破ったり、常識から外れることは「超自我」と結び付けられるのだ。「超自我」とは、 社会的危機察知能力なのである。

 しかし、何も知らない子供には自我と超自我もなく、快楽を追求するだろうというのが、 フロイトが言う人間の暴力性ということである。子供が何でも食べようとしたり、虫を殺したり、ショッピングモールで、「買って買って」攻撃をするのは、自分の欲を一番に満たそうとするからなのである。そのため大人へ成⻑し、社会へ加わるということは、快楽追求という幸福を捨てて、文明の恩恵を受け取るという取引になるのである。そのため「文明=抑圧装置」ということになるのである。 カウンターカルチャーがフロイトから影響を受けたのは、文明が抑圧の装置であり、人間本来の幸福を捨てて、文明に従っているという主張であった。私たちは縛られた世界に生きていて、この抑圧の世界から抜け出し「自由」になるためには文化、社会をまるごと拒絶し て社会からドロップアウトするしかないということである。

 ここに、モダンな前世代との「文化/文明」についての価値観のズレがあるではないだろうか、親世代は別名、サイレント・ジェネレーションとも呼ばれており、文化が発展して、 生活が豊かになるのであったら、少しのことなら意見は何も言わず、戦争、世界恐慌による経験から、安定した生活をすることが至上目的であった。そして上記したように、ソ連の核実験成功により、アメリカの国際的な軍事一強時代は終わりを迎え、冷戦からの恐怖も生まれた。前世代的価値観が形成する過程では、アメリカ社会は、まだ「ゆたかな社会」ではなかったのである。「画一的か貧困か」のどちらか一つを選ぶなら、画一的である方選ぶという人のほうが多いのは当たり前のことであろう。

 しかし、その子供たちはそうではなかったのである。世界恐慌も、戦争からの不安も知らず、「ゆたかな社会」のうえに生まれ、育った、子供たちにとっては、食べること、快適に過ごせる服、家があることが当たり前であり、「ゆたかな社会」は普通なことであった。それに加えてレヴィットタウンなどの画一的な生活様式。子供たちが生活に刺激を感じなくなっていたことは考えるに難しくないだろう。

 加えて、彼らの目に映るのは文明があるために起きる、社会的格差や差別など悪いことばかりであった。彼らの貧困の捉え方については、後ほど記述するが、そのような時代であったなら社会を動かしている体制を抑圧的装置だとして捉え、画一的な親世代が文明、社会という抑圧装置に洗脳され、体制に順応主義者となっているように思っても不思議はないだ ろう。それから彼らは、ドラッグ、フリーセックス、放浪、コミューン、ロックなどに刺激を求める快楽主義者という、私たちが知っているヒッピーになっていったのである。