1+1ー2=0

だろうが

(8+5+3+6)×1ー(3÷3+6+15)=0

だろうが

10000×5000×0=0

どれも結果は同じ。

仕事では、結果が全てというけれど、それはあくまで()内の数式であって、いわば「過程の上での結果」だ。

なぜなら実際にはいくつも()が連立していくので、それは人生の中では大きな役割を占めるとはいえ、あくまでひとつの()であるからだ。



人生はプラマイゼロだという言葉に、ある意味ですごく縛られて作品を創っている。

それはとても不安定だった時に出会い、いまも縋り付いている、実在するかわからない付加価値を秘めた言葉だ。

不幸と幸福のバランス、善悪のバランスを短いスパンで捉えて0に調整してしまう節が在る。

それはキャッチーでもあるし、保守的な考えとも言えるが、ネガティヴに捉えるといくらでも底辺を更新してしまう。

「どうせ0になるなら最初からやらなくていいじゃないか」といういわゆる悟り世代を象徴した理論。

だけど、今振り返るとまた違う感覚で捉える事も出来ることに気づく。

•人生の数式はプラマイ0である。

その定義は変わらないとしても、その内容は好みにでデザインとまでいかなくとも大いに夢を見出せる。

例えば、

•0になるとしても、死ぬ時に×0がかならずくる

という考え。

であれば、長期的な数式で、ちゃんと情熱を合理化して捉える事が出来る。

•どうせ×0になっちゃうならプラス味わいまくってもいーじゃんか理論

である。中二思想はしばしば希望のあまり、絶望の破片を自ら拾い集めて血が流れる事を自ら確認してしまいがちだけれど、この理論なら正しく幸せを求めていい気がしてくる。





バンド始める前は、こんなことばかり考えていたなとなんとなく思い出した。
何かに必死だと振り返ったりしないし、あまりに空虚でも同じだという事を知った空白期間だった。

今思えば、考える度にマイナスの数式が浮かぶためそれを阻止する為に自ら一年という空白期間の()内に×0を付けていたのだろうと思う。



それぞれもちろん好みだけど、結果は同じでもできるだけ複雑な数式で人生を味わいたい。
だから、こんなどうでもいいことを考えて自分メモしたりする。

そこは理解されたい、という顕示欲とまた別の次元の話だ。

結局99%の共感が欲しいのであって、それ以下だと悔しいし、それ以上は、‘求めているという理由を奪われたくないが為’、求めていないのだから。



こうやって客観視できる過去があるのはとても幸せな事だと思う。

0であって0でないということに繋がってくる。

あくまで例えであるこの数式理論も、これからどこまで複雑で難解なものになるかと考えたらすごく楽しみだ。

あまり長く複雑になると、暗唱できないので、その都度振りかえるべきだ。