その裏長屋は目黒通りから奥に入った路地の突き当たりにあった。その長屋を見た瞬間、俺は一人ごちった。
「くそったれ」
一緒にいた不動産屋のオヤジは一言。
「はあ?」
上がり込んで畳の上にごろりと寝転ぶ。俺は言った。
「借りるぞ」
「え?」
長屋の入口に大きな看板を出すことにした。何と書こうか、ひと晩、考えた。
『御嶽山流占術公伝所』
われながらいい出来ばえだ。御嶽山?どんな山なんだろう。暇があったら調べてみよう。
客足は上々。今にもぶっ潰れそうな、おどろおどろしき裏長屋。そこに宿る邪気が客を呼ぶらしい。黙って座ればピタリと当たる。俺は神秘の世界に住む占術家になった。
金が入るとすぐに長屋に不釣合いなマホガニー製の食器棚とテーブルを買った。茶碗入れ、兼テーブルだったみかん箱とはお別れだ。
困った事と言えばただ一つ。仕事が上手く行き始めた頃だった。宮内という男が訪ねて来た。奴の目が俺を見据えていた。
(なんだ、この男)
俺は言った。
「何かお悩みですか」
「先生……私を弟子にして下さい」
「デシ?」
(デシ……て、弟子のことか。弟子?困ったな。俺が何をやっているのか知らんくせに)
「先生、お願い致します」
宮内は深々と頭を下げた。
「ま、君、……そんなに早まらなくても」
「早まる? ともかくお願い致します」
そう言うなり、宮内は腕組みをし、何か考えこんでいるのか俯いてしまった。暫くして呟いた。
「やっぱり、ここしかない。ここにしよう」
勝手に決めるな。迷惑千万。ところが何時の間にか宮内は居ついてしまった。
そんな事はどうでもいい。仕事は順調。念願のスポーツカーを買った。当然新車。住む所よりも先ず車。
その日、俺はいつもより早く起きていた。外で響くエンジン音。外に出るとディーラーの男が立っていた。俺は何食わぬ顔で男の説明を聞いていた。男の後ろ姿が見えなくなると、さっそく車体を撫でてみた。真っ白に光り、しなやかで繊細。俺の心そのものだ。運転席に座る。フワッと体が座席に沈み込む。新車の匂いがする。エンジンを掛けてみた。車内のあちらこちらに小さな明かりがともる。素適だ。今日は十時から予約客が次々にやって来る。十時からだ。少し時間がある。ちょっとだけ町内をひとまわりしてみよう。ゆっくり駐車場から出て、左折、ゆっくり走ってみる。有料駐車場、茶色のハンチング帽を被った男、見慣れたビル、上を走る高速道路、見慣れた風景。見慣れた風景が輝いて見える。向こうに高速道路の入口が見える。料金を払うと高架式の高速道路への坂をゆっくり登って行った。俺は心の中で叫んだ。
「宮内君、今日の仕事は君に任せる」
ビルの谷間を西へ西へとかっ飛ばす。一時間も走ると住宅にまじって畑が見え隠れする。やがて茶色に枯れた葦が広がる。時々、葦原の中に雪がまじる。突然、富士の山が躍り出る。切立った斜面が青空に映える。これが富士なのか。北側から眺める富士は魔王だ。俺はこのとき富士の正体を悟った。そして笑った。
山中湖のほとりを駆け抜け、碧く輝く本栖湖へ。朝霧高原に着いた頃には気分はスーパーマン。
朝霧高原で車を降りてみた。富士が見えた。朝見た富士とはまったく違う富士だった。神々しい光を放つ富士が裾野を広げていた。
俺がスーパーマンになってしばらくしてのことだった。今までの荒稼ぎが祟ったのか、客足がパタリと途絶えた。
今日も客は来ない。ついにスーパーマン、病にたおれる。病院へ行っても直らない病気。否、病院へも行けない病気。金欠病。
春の訪れを知らせる生暖かい雨が屋根や地面をたたく。昨日も雨。今日も雨。ひたすら雨音を聴きつづける。気分は禅宗の高僧。心頭滅却すれば火もまた涼し。しかし腹は減る。
「宮内君、腹減ったな」
俺はゆっくり畳の上に大の字になった。ところが宮内は元気だった。
「凄い物を作りましょう。ちょちょいの、ちょいです。待っていて下さい」
宮内は台所へ行くとお湯を沸かし始めた。お湯が沸くと、お湯と水、そしてドンブリをお盆に載せて部屋に戻って来た。
「お待たせしました」
宮内はテーブルにドンブリを置くと、水を注ぎ入れた。そして次に威儀を正して呪文を唱えながら沸騰したお湯を水の入ったドンブリに注ぎ始めた。ゆっくりと立ちのぼる湯気。宮内の鼻腔は温かい湯気を一粒でも逃すまいとヒクヒクと煽動を繰り返していた。宮内はお湯を入れ終わると厳かに言った。
「さあ、できましたよ」
「なんだい、それは」
「魔法の食料。水と沸騰したお湯を三対七の割合で混ぜる。これを飲むと不思議に空腹感がおさまるのです。ポイントは突沸しているお湯を使う事。単に熱いお湯ではこの効果は出ません。さ、召し上がれ」
俺はどんぶりのお湯をすすった。
「うん、確かに腹が落ち着く。魔法か。もっとすごい魔法で女官、召使つきの宮殿でも出してくれんか」
そう言いながら俺はお湯をすすり続けた。宮内が言った。
「魔法を御所望ですね。フフフ……ハハハハハ……」

