この章で綴る話は、私の人生を総括する上で是非皆さんに伝えたいことです。自分にもう一度言い聞かせるために、ここで改めて書き留めたいと思います。人生において運命の出逢いというモノが本当にあるとするならば、互いの人間にもたらすエネルギーは想像よりも絶大であり、人生への影響力は計測器で計りきれないでしょう。私の人生の転機となった、一つの出来事を綴っていきます。

 私は幼少期から病院に入院し、長期療養生活を送ってきた中で一人の同い年の看護師である女性に出逢ってから、ひとつ大切なことを教わりました。それは私たち障害者の存在を取り巻く現代社会に対しても、広く提唱を投げ掛けているものでした。私自身、『障害者』にとって本当の優しさとは一体どういうことだろうかと、腑に落ちないまま今日まで素通りしてきた究極の命題です。私自身、幾度もこれまでの経験を基にし様々な観点から深く考え、必死になって答えを出そうとしました。その時に辿り着いた答えや真実は、いつも一つではないという重大な事実を知ったのです。無作為な優しさは時に卑下する甘やかしとなり、その上若干ではありますが、相手の人間的弱さを尚更生み出してしまいます。現代社会で成立している一般常識で見れば、私たちは「社会的弱者」という分類に区分されている障害者であり、その上、進行性筋ジストロフィー症患者というお墨付きです。その者達に相対する数多の健常者の対応策は、「お年寄りや体の不自由な人には、いつも優しく接しなさいよ」と学校教育でも習うように、常に私たちに対して優しく配慮し、こちらから何も言わずとも手伝ってくれたり、気を配ってくれることだと考えられています。しかしこの女性は違っていました。一般常識とはかけ離れた全く違う別の切り口で、そして別の手段で相手の力を引き出す行動を起こしてくれたのです。私に対して他の人間とは違う空気で、至って普通のありのままの姿で向き合ってくれたのでした。本来人間が感じ取る喜びの姿とはこういうものかと、新鮮に向き合っていることを実感させてくれたのも事実です。相手を『障害者』だと意識しすぎた態度で、ただ単に当たり障りなく「優しくすることだけが本当の優しさではない」と、この女性から強く教わったのです。それは障害者から見る、健常者という逆の立場からも成立することです。このことは深くて重く考えさせられますが、ただ人間としてあるべき姿の原点ではないでしょうか。人間は心では思っていることも、肝心な時には大切なことを伝えきれずに忘れて、今を綺麗に生きようとだけするのです。私自身が今日まで履き違えてきた、本当の優しさの意味を教えてくれたのは、たった一人の女性でした。


 人間は厳しさだけの海は泳げません。しかし優しさだけの海でも溺れてしまいます。常に理想と現実、可能と不可能のバランス感覚を持っていなければなりません。一人の女性が私のことを本当に思って、良い意味で厳しく接してくれたことが紛れもない本当の優しさの姿だと知り、言葉より早く確かな態度で気付かせてくれたのです。一時の人気や、その場だけの空気や勢いで盛り上げてくれる仲間よりも、長くずっと良いときも悪いときも理解してくれて、死ぬまで互いに御贔屓し合える仲間が私は安心して心を許せます。ある日突然、人が変わったような冷たい視線で、穿った見方をしてしまう関係はイヤですから。これまでの乱れている常識をひるがえすように、私はその女性に教わり考えました。それは本来あるべき姿で、沢山の当たり前のことでした。生きるためには感情があること。素直に謝ること。素直に教わること。素直に学ぶことを・・・。そしてそれを素直に「活かせる心」です。今の自分のちょっとした自慢があるとすれば、この女性が口に出して言わなくても分かってあげられることことや、私が言わなくても分かってくれていることです。ちょっと自惚れかも知れませんが、周りの人々には見えないモノだとしても、私にはきっと見つけられる気がするのです。そんな自負が私の今を動かし、自分自身の存在を支えています。その女性の前では、まるで雨の日も太陽が出ているかの如く毎日が明るく感じ、人生は波あり谷ありで雨ばかりの毎日が続いたとしても、束の間の太陽さえあれば、気持ち良く感じる朝を与えてくれるのです。倒れている気持ちを叩いて、元気に生き返らせてくれる灯りです。

 ガラス窓から射し込んでくる太陽の陽射しは、優しさにも似た暖かな光の束となり、体中の落書きを消し去って今までにない感情が自分に残されていることを再認識されてくれたのです。この女性は私が今まで経験してきたことや、そこから生まれてくる気持ちや苦悩を誰よりも理解して、最もサポートしてくれた人間なのです。