塾でバイトをしている。昔…といっても一年も経っていない、高校3年生のときまでお世話になっていたところだ。何がどうころんだのか、習っていた場所で働かせてもらっている。ありがたいことである。今日勤務終わりに他の先生と雑談をしていた。私が高校生時代にお世話になった先生方だ。昔いらっしゃった先生方の思い出話と相成り、私が高校生時代の話になった。
私が高校生の頃、一番つらかった時期はやはり高3の時期だろう。周りは受験一色、そんな中私は運良く行きたい大学の推薦要件を満たしていた。これまで一ミリも考えていなかった「推薦」という選択肢が現実味を帯びだしたのは、2学期が始まった頃だった。振り返れば、たしかにもうこのような受験勉強から開放されたいという気持ちもないわけではなかった。しかしそれよりも、行きたい大学へ行くチャンスを一つでも多く確保したいという気持ちのほうが圧倒的に強かったと思う。それほどまでに、当時の私は切羽詰まっており、日本全国どの大学にも行けないとさえ思っていた。私よりも勉強ができない人はいないと思っていたし、私が入れるような大学ももはやないとまで思っていた。そのような中、推薦の可能性が見え、これは最後のチャンスではないかとさえ感じた。人生がかかっているのだ。それくらいは切羽詰まるものだろう。
推薦を得るためにはまず、申請書か何かの類を担任経由で校長に提出する必要がある。この担任が曲者だった。彼以上に素晴らしい先生はそういないだろうとも思うが、このときばかりは曲者だった。提出しようにも、受け取ってくれないのである。彼は「筑波大学へいけ」と賜るのである。はたと困った。筑波大学どころかどの大学にも行ける気がしていないのだ。このときはただ冗談を言っている風にしか思えなかった。しかし、提出期限が5日後に迫ると、そううかうかしていられない。私が彼の行ったことを冗談だと思っていたように、彼も私の行ったことを冗談だと思っていたのだろうか、説得に本腰を入れ始めた。私は5日連続で英語科準備室に呼びつけられた。担任は英語教師だったのである。
指定の時間に彼が来ないことはその5日間に限らずいつものことであったため、やれやれとしか思わなかった。ある種個性のようなものである。そのようなところも好感が持てるし、だらしのなさは人のことを言えないので全く文句はない。待ち時間も長かったが、その5日連続2者面談もこれまた長かったのである。長いとはいえ、彼はしっかりと説明をした。具体的な偏差値から始まり、いかに筑波大がすばらしく私の今通っている大学がクソかを語った。これは少々失礼だっただろう。ともかく、論理的な説明をしていたのは強調しておきたい。しかし、筑波だなんだと言われても、私はどこの大学にも入れないと思っていたのだ。流石に大学生となり、今はどこかしらの大学には行けただろうと思っているが当時はそう思えなかったのである。ましてや筑波大など夢のまた夢だ。無論これは今でも夢のまた夢だと思っている。私にしてみれば、「お前ならできる、空を飛べ」としつこく言われているようなものだ。しかも、このときは受験勉強も相まって精神状態もいっぱいいっぱいだった。
このような状況の中で、偶々居合わせた全く面識のない知らない先生が「できない理由を探してるだろう?」「そんなんじゃ大学で何もやらないでしょ?」「俺が言っていることが正しいのはわかるよね?」などとほざき始めたのだ。もう地獄である。私にしてみれば、人生がかかっている事柄なのだから博打を打てるわけがないし、彼が言っていることが正しいのは一ミリも理解ができない。今でも理解はできていない。できない理由を考慮しないなどただの無鉄砲だ。向こう見ずとも言う。人の人生がかかった大切な選択に際してよくもまぁそのようなことが言えるなと思った。その上、「やらないでしょ?」と断定されたのも腹立たしい。お前が私の何を知っているのか、と食って掛かりたかったがそんな度胸はなく、「何もやらないだろう」の部分に関して「大学に入ったらやるしかないではないか」と反論した。しかしその劣化版松岡修造先生は壊れたテープレコーダーのように「でもやらないでしょ?」という言葉を繰り返し述べるだけだった。私は絶句したが、そのうち彼は電話の対応か何かでどこかへ行った。助かった。
担任の先生が論理的説明に終始していたのは私がこの手の精神論が一番嫌いだということをわかっていたからなのかもしれない。彼は生徒をよく見ていた、素晴らしい先生だった。空を飛ばそうとはしたけども。壊れたテープレコーダーがどこかへ行った後も、彼はそれを色々フォローしていた気がするので、あらかた同じことを思っていたのかもしれないし、性格が良いからかもしれない。多分前者だと思う。曰く、壊れたテープレコーダーは「受験勉強が人生を作るという信条のもと、その当時とおなじ生活リズムで生活し、6時位に学校に来ている」そうだ。だからどうしたとしか思わなかったし、全力で態度に示した。さすがに「だからどうした」と口に出すほどの度胸はなかった。
家に帰り、私は泣いた。4日目くらいだった気がする。昼休み、放課後と詰められ(お弁当を食べる時間もなかった)、空を飛べを言われ、見知らぬ壊れたテープレコーダーが精神論を展開してくるのだ。途方に暮れ、私は泣くしかなかった。学校で泣くのは少々…いや、かなり恥ずかしかったので我慢したが、家では我慢できなかった。塾で愚痴りまくった。一応過去問等やることをしっかりやった上でだったと思うが、それを考慮しても失礼この上ない話である。冷静な判断ができていなかったのだなぁと改めて思う。
私は今でも私がとった選択は正しかったと思っているし、筑波を目指したところで落ちていたと思う。今の大学で楽しくやれているし、他の大学に行ったとしてもまぁそこそこ楽しくやれていた…のかはわからない。少なくとも当初教員になりたいという理由だけで目指していた教育学部だったら楽しめてなかっただろう。教育学には一ミリも興味がわかない。教職課程だけで限界だ。
私はこの経験から、安易な精神論と生徒の考えの否定を絶対に行わないというある種の思想を持っている。理由は単純であり、嫌だったからである。嫌だった上、なんのメリットも得られなかったからである。繰り返すが、件の壊れたテープレコーダーは、今でも大嫌いである。できることなら一生出会いたくない。意味もなく生徒を傷つけ、そのくせ具体的なアドヴァイスでもない、単なる価値観を押し付けるだけの精神論は百害あって一利なしというのが私の達した結論である。だから、塾講師のアルバイトをしている中、私は精神論を決して振りかざさないし、頭ごなしの否定は絶対にしないし、これからも絶対にしないと決めている。
ちなみに、件の面談のあと、所用で壊れたテープレコーダーが担任をしているクラスの教室へ足を運んだ。背面黒板に格言だかなんだかの欄があり、そこに「できない理由を考えるな、できる理由を探せ」とあった。根本的に思想が合わないようだ。気色悪い。