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矢印日記

140字を超える文章。ただ書きたい内容をつらつら書いているだけなので、読みづらいと思います。

塾でバイトをしている。昔…といっても一年も経っていない、高校3年生のときまでお世話になっていたところだ。何がどうころんだのか、習っていた場所で働かせてもらっている。ありがたいことである。今日勤務終わりに他の先生と雑談をしていた。私が高校生時代にお世話になった先生方だ。昔いらっしゃった先生方の思い出話と相成り、私が高校生時代の話になった。

私が高校生の頃、一番つらかった時期はやはり高3の時期だろう。周りは受験一色、そんな中私は運良く行きたい大学の推薦要件を満たしていた。これまで一ミリも考えていなかった「推薦」という選択肢が現実味を帯びだしたのは、2学期が始まった頃だった。振り返れば、たしかにもうこのような受験勉強から開放されたいという気持ちもないわけではなかった。しかしそれよりも、行きたい大学へ行くチャンスを一つでも多く確保したいという気持ちのほうが圧倒的に強かったと思う。それほどまでに、当時の私は切羽詰まっており、日本全国どの大学にも行けないとさえ思っていた。私よりも勉強ができない人はいないと思っていたし、私が入れるような大学ももはやないとまで思っていた。そのような中、推薦の可能性が見え、これは最後のチャンスではないかとさえ感じた。人生がかかっているのだ。それくらいは切羽詰まるものだろう。

推薦を得るためにはまず、申請書か何かの類を担任経由で校長に提出する必要がある。この担任が曲者だった。彼以上に素晴らしい先生はそういないだろうとも思うが、このときばかりは曲者だった。提出しようにも、受け取ってくれないのである。彼は「筑波大学へいけ」と賜るのである。はたと困った。筑波大学どころかどの大学にも行ける気がしていないのだ。このときはただ冗談を言っている風にしか思えなかった。しかし、提出期限が5日後に迫ると、そううかうかしていられない。私が彼の行ったことを冗談だと思っていたように、彼も私の行ったことを冗談だと思っていたのだろうか、説得に本腰を入れ始めた。私は5日連続で英語科準備室に呼びつけられた。担任は英語教師だったのである。

指定の時間に彼が来ないことはその5日間に限らずいつものことであったため、やれやれとしか思わなかった。ある種個性のようなものである。そのようなところも好感が持てるし、だらしのなさは人のことを言えないので全く文句はない。待ち時間も長かったが、その5日連続2者面談もこれまた長かったのである。長いとはいえ、彼はしっかりと説明をした。具体的な偏差値から始まり、いかに筑波大がすばらしく私の今通っている大学がクソかを語った。これは少々失礼だっただろう。ともかく、論理的な説明をしていたのは強調しておきたい。しかし、筑波だなんだと言われても、私はどこの大学にも入れないと思っていたのだ。流石に大学生となり、今はどこかしらの大学には行けただろうと思っているが当時はそう思えなかったのである。ましてや筑波大など夢のまた夢だ。無論これは今でも夢のまた夢だと思っている。私にしてみれば、「お前ならできる、空を飛べ」としつこく言われているようなものだ。しかも、このときは受験勉強も相まって精神状態もいっぱいいっぱいだった。

このような状況の中で、偶々居合わせた全く面識のない知らない先生が「できない理由を探してるだろう?」「そんなんじゃ大学で何もやらないでしょ?」「俺が言っていることが正しいのはわかるよね?」などとほざき始めたのだ。もう地獄である。私にしてみれば、人生がかかっている事柄なのだから博打を打てるわけがないし、彼が言っていることが正しいのは一ミリも理解ができない。今でも理解はできていない。できない理由を考慮しないなどただの無鉄砲だ。向こう見ずとも言う。人の人生がかかった大切な選択に際してよくもまぁそのようなことが言えるなと思った。その上、「やらないでしょ?」と断定されたのも腹立たしい。お前が私の何を知っているのか、と食って掛かりたかったがそんな度胸はなく、「何もやらないだろう」の部分に関して「大学に入ったらやるしかないではないか」と反論した。しかしその劣化版松岡修造先生は壊れたテープレコーダーのように「でもやらないでしょ?」という言葉を繰り返し述べるだけだった。私は絶句したが、そのうち彼は電話の対応か何かでどこかへ行った。助かった。

担任の先生が論理的説明に終始していたのは私がこの手の精神論が一番嫌いだということをわかっていたからなのかもしれない。彼は生徒をよく見ていた、素晴らしい先生だった。空を飛ばそうとはしたけども。壊れたテープレコーダーがどこかへ行った後も、彼はそれを色々フォローしていた気がするので、あらかた同じことを思っていたのかもしれないし、性格が良いからかもしれない。多分前者だと思う。曰く、壊れたテープレコーダーは「受験勉強が人生を作るという信条のもと、その当時とおなじ生活リズムで生活し、6時位に学校に来ている」そうだ。だからどうしたとしか思わなかったし、全力で態度に示した。さすがに「だからどうした」と口に出すほどの度胸はなかった。

家に帰り、私は泣いた。4日目くらいだった気がする。昼休み、放課後と詰められ(お弁当を食べる時間もなかった)、空を飛べを言われ、見知らぬ壊れたテープレコーダーが精神論を展開してくるのだ。途方に暮れ、私は泣くしかなかった。学校で泣くのは少々…いや、かなり恥ずかしかったので我慢したが、家では我慢できなかった。塾で愚痴りまくった。一応過去問等やることをしっかりやった上でだったと思うが、それを考慮しても失礼この上ない話である。冷静な判断ができていなかったのだなぁと改めて思う。

私は今でも私がとった選択は正しかったと思っているし、筑波を目指したところで落ちていたと思う。今の大学で楽しくやれているし、他の大学に行ったとしてもまぁそこそこ楽しくやれていた…のかはわからない。少なくとも当初教員になりたいという理由だけで目指していた教育学部だったら楽しめてなかっただろう。教育学には一ミリも興味がわかない。教職課程だけで限界だ。

私はこの経験から、安易な精神論と生徒の考えの否定を絶対に行わないというある種の思想を持っている。理由は単純であり、嫌だったからである。嫌だった上、なんのメリットも得られなかったからである。繰り返すが、件の壊れたテープレコーダーは、今でも大嫌いである。できることなら一生出会いたくない。意味もなく生徒を傷つけ、そのくせ具体的なアドヴァイスでもない、単なる価値観を押し付けるだけの精神論は百害あって一利なしというのが私の達した結論である。だから、塾講師のアルバイトをしている中、私は精神論を決して振りかざさないし、頭ごなしの否定は絶対にしないし、これからも絶対にしないと決めている。

ちなみに、件の面談のあと、所用で壊れたテープレコーダーが担任をしているクラスの教室へ足を運んだ。背面黒板に格言だかなんだかの欄があり、そこに「できない理由を考えるな、できる理由を探せ」とあった。根本的に思想が合わないようだ。気色悪い。

 What is the goal of studying English? Who would be an English “Master”? What to define as the goal depends on what to do, perhaps. In my opinion, actually, there’s no becoming an English Master, or mastering English (or any other languages). 
 At the very beginning of studying a certain language, the goal is usually becoming able to speak, or communicate with speakers of the language. For example, if you are a beginner of English, your goal would be being able to speak with English speakers. Looking at the English textbook used in elementary schools, you’ll find it teaches many expressions depending on situations, which means the goal of those who are at such a stage is making communication in English possible, even though it is merely limited situations, such as telling the way to somewhere or greeting.
In such cases grammar is not necessary. All you have to do is remember words and experiences, or sometimes sentences themselves. That should be the reason why it is often said that what we learn in school is useless. Actually, I have seen such phrases in advertisements of English education services countless times. For those who want to communicate in English in very limited situations, even though they don’t study grammar, which is sometimes thought as difficult somehow, they would realize the goal: communicating with English speakers. It is very natural that what we’ve done in schools seems to be useless, because the goal is completely different.
 Then, what is the goal of English classes in our schools? Why do we study grammar? In my opinion, it is to make it possible for you to express what you think or want to say in English; that is, to speak your own English. As I said many times, grammar is not necessary when just communicating with English speakers. However, in expressing yourself in English, grammar is quite important, because understanding grammar, even if not perfect, makes you know how to make sentences. Knowing verbs are followed by subjects, you can say “I am” or ”this is” or “I like”... Having studied inversion, you can understand such sentences: Neither do I, or So do I… 
 Still, even when you become able to produce sentences, you would feel it is not enough. Every time you realize one goal, the next goal always emerges. If you understand grammar to a certain degree, you would want to communicate with English speakers like the native. Though I understand grammar a little, my ability to speak English is far from the native. But even if I were like a native speaker, another goal would emerge, I imagine. Perhaps English learners all aim to master English, but have actually noticed that it’s impossible to master a language. This reminds me of Pokemon. Red, the main character of Red and Green, became a champion of pokemon league, but he was not able to be a pokemon master. In fact, in the following story, gold and silver, he lost to Ethan. Nevertheless neither is Ethan. Neither is Ash. Improving as a pokemon trainer can be aiming for an impossible goal. That can be applied to studying a language. It is impossible to master one, but in order to improve your skill we must aim for the impossible goal.

何に端を発したのだろう、ということはしばしばある。なぜその話をしたかというと、ちょうどそのようなことがつい最近起きたからである。

 

Gmailを開いてみると、何やらAmebaからお知らせのメールが届いていた。ブログにメッセージなるものが届いていたらしい。そもそもメッセージというシステムがあったことを初めて知った。件名の頭に隅付き括弧で【要確認】とあったので、確認を要するらしい。「メッセージはこちら」というリンクを開いてみたところ、何ということでしょう。

何がどう不適切判定されたのか、本文を見られなかった私には知る由もないが、大体の内容は件名から察することができた。クローズドのメッセージで送信してきたということはここで内容を書くのはマナー違反だと思うので詳細は省くが、その内容こそまさに何に端を発したのかと感じたものであった。勿論、ありがたいという思いも当然大きい。なにはともあれ、このメッセージに関して私は意図して無視をしているわけではなく、読むことができなかったのであると言い訳をさせていただきたい。そう、今回は言い訳のためだけの回なのである。

 

さて、そんな「何故?」と首をひねりたくなるような出来事はSNSを楽しむ上ではよくあることである。Twitterにおいてそれは顕著だ。例えば、時折全く想定外の方からフォローやフォローバックをしていただくことがある。国会議員の方や、私が尊敬してやまないむしろ推しと言っても過言ではないアナウンサーの方などが典型例である。言うまでもなくとても嬉しい。フォローの通知が来たときは誇張抜きで変な声が出たくらいには嬉しい。しかし、それと同時に、何に端を発してフォローをしていただいたのかはとても気になる。…が、変なことを呟いてフォローを外されたらそれはそれで心臓がキュッとなるのであまり触れないようにしようと思う。

 

 

ところで、ブログを書いていて思ったことだが、「例えば」という表現はとてもおもしろい。「例えば」の用法として、以下の2つが考えられる。「例えば、A、B、 Cである。」のように、名詞を例示する用法と、「例えば、SがVする」のように例を文で表す用法だ。

これを英語で表すとどうなるだろう。「例えば」の英訳として多くの人がまっさきに思い浮かべるものは"For example"ではないだろうか。(ここでFor instanceと答える人は少し捻くれているように思う) しかし、このFor exampleは文修飾の副詞句、つまり接続副詞としての役割を果たす副詞句と捉えられる。ゆえに、先程挙げた「例えば」の用法のうち、後者であればその表現を用いられるが、前者の場合は"For example"は用いられないのである。ちなみに私は高校生の時に"For example, A, B and C."というふうに書いてテストで減点されたことがある。同じような経験を持つ人は割といるんじゃないだろうか。

では、名詞を列挙して例示するときに用いられる表現は何かというと、"such as"等が挙げられるだろう。つまり、(群)前置詞がその役割を担うことになり、なにかを例示する役割を果たす前置詞句が文中で働くということである。日本語であれば文を分けるのが自然な場合でも、英語では一つの文の中の修飾語句として表されるというのが、なんとも面白いとおもった………それだけである。ここまで長く書くようなことではなかった。