再びエチオピアへ | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

来週からは久々のエチオピア。25年以上も通い続けてトータル10数回、それでまだまだ言っていない場所があります。それほど観光資源があるのですが、私はやはり歴史と多種多様な民族が共存共栄していることに非常に興味を持ちます。

 

今回はスーダン国境近くのエチオピア南西部への旅。90近い民族を抱えた一つの国家は地球上での宇宙におけるひな形と言えるかもしれません。スルマ族など私たち日本人にも創造を絶する風貌、伝統文化の中に生きています。

 

今では日本で入手すると非常に高価なゲイシャコーヒー原産地。エチオピアからパナマに移出され現在ではパナマでのゲイシャコーヒーはコーヒーの中でも群を抜いて高級なコーヒーとなっています。エチオピアは高地ですから、日中と朝晩の気温差が大きいのが特徴です。日中は高温になっても朝晩は本当に寒いのです。2000m級の高地ですので高山病の心配ありません。

 

しかし今回の場所と異なった場所では真逆に気候帯であるダナキル砂漠での地溝帯ではマイナス100mという地もあるのです。様々な民族、気候帯、伝統文化と本当に飽きない国です。

 

私が最初に訪れたのはエチオピアの飢饉から数年後のことでした。1995年頃であったかと思います。本当に地方は貧しいの一言でした。牛も子供もガリガリ、宿泊施設はノミのラッシュ、お水はでないの世界でした。それが、今や首都のアジスアベバの発展ぶりにも目を見張るものがあります。

 

最初の頃はエチオピア航空の飛行機は全部で5機でしたので、国内線では時刻表はあっても無いに等しい各駅停車。ターミナルもなく掘っ立て小屋で何時間も待つ。あるのエチオピアコーヒーだけという世界でした。それは今やエチオピア航空なアフリカではどんな路線のそして日本にも乗り入れしている世界を網羅する航空会社に成長しました。当時はもちろん日本には乗り入れしていませんでしたので、いつもバンコクまで行って乗り継いでいました。ですからバンコク市内には出ずに空港内のトランジットホテルに宿泊、何度も何度もバンコクの空港に行ったものです。

 

アフリカの人々が普段の生活で急いで走るという光景は目にしないのですが、例外はエチオピアのアジスアベバでした。日本社会を見ているかのようでした。この勤勉さが発展の鍵となったのかと。もちろんん、多民族国家ですので、ある一部の民族ですが。コロナ禍で4年ぶりのエチオピアです。とても楽しみにしています。