矢野シンさんについて② | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

前回に引き続き、霊能者であった矢野シンさんについて書きます。と言いましても、これは高坂和導の最後の本「トンデモ発想でいきてみないか?」からの抜粋です。高坂は竹内文書を研究するきっかけとなりました「神霊正典」の著者である矢野祐太郎さんはお若くして獄死していましたので会ってはいません。また高坂が生まれる前に既に矢野祐太郎さんは逝去されていましたので。しかし、全て押収されたこの本を奥さまの矢野シンさんが必死に探し求めて1冊が手元に、そしてごく少数の印刷された本が高坂の手に渡ったというのも非常に奇遇であります。これは最初は「神霊密書」という題名だったと思います。さて前回の続きです。

 

高坂は矢野邸に着くと、玄関の前には黒いベンツが止まっており、大勢の人がどこかへ出かけるよとしている様子でした。いらっしゃいといってくださったのに、どこかへお出かけになるのかなと不思議に思いながらも、矢野シンさんに挨拶をしようと人々の群れに近づくと、「さあ、あなたも乗りなさい。」といきなりベンツに乗せれてしまったのです。しかも高坂が座らされたのは、その一行の中心人物、矢野シンさんの隣のシートでした。

 

シンさんは高坂にニコニコしながらお話されました。

「今日は、弥勒の神さまのお祭りなんや。私らは、弥勒の神さまが世にお出ましになる山をずっとさがしていたんやけど、やっとそれが見つかってな。今日はそのお祭りをしに但馬の元伊勢にいくところだったんや。そんな日に来るなんて、あんたは神さまの孫みたいや子やな」

 

直感に従ったことで、高坂は運よく記念すべきお祭りに参加できたうえに、シンさんと親しく言葉をかわし、神霊正典までいただき、皇祖皇太神宮への道順や、ご神宝公開日まども教えていただくことができたのです。

 

シンさんは矢野祐太郎さんの奥さまというだけでなく、ご本人の素晴らしい力を持った方で、大元経の聖典「おふでさき」「霊界物語」を霊的に受け継いだものと言われる岡本天明せんの「日月神示」を最初に解読したのは、ほかならないシンさんだったのです。日月神示はそのほとんどが漢数字で書かれた神示で、最初は誰も、神示を降ろしたの岡本天明さんご自身も読めなかったのです。しかし、シンさんが最初の「二二八八〇十」という数字を「冨士は晴れたり」と読んだのを機に解読が進んでいったのです。高坂はこの日に「日月神示」もいただいて帰りました。高坂の日月神示の出会いでもありました。生涯、高坂は日月神示も竹内文書同様にずっと研究し続けました。

 

シンさんがご逝去されたのは、高坂がお目にかかってわずか2カ月後のことでした。あと時高坂が直感を信じなけれは、矢野シンさんとお会いすることも日月神示とであることもなかったでしょう。そしてこのご縁が、矢野祐太郎さんとシンさんとのご長女であった青砥代矢子さんへと引き継がれました。高坂は青砥先生には随分かわいがっていただき、神戸ではいつも泊めていただいておりました。

 

青砥先生とのお付き合いの中で、高坂はご神示のもとに元伊勢神社の1つである、内宮 皇大神社のご神体ともいわれる山、禁則地である日室が岳に登りました。また竹内文書Ⅱで公開されました矢野祐太郎さんが残された伊勢神宮の八咫鏡の写しを高坂が神示で指定された昭和55年1月8日に三笠宮様のお渡することにもなったのです。

 

ご参考までにこの神霊正典は書店では扱いはないと思います。年表と一緒に青砥先生のご長女の方、つまり矢野祐太郎さんとシンさんのお孫さんに引き継がれています。お住まいは何と高坂が最初に白装束のおじいさんから手渡された等々力不動の目と鼻の先の所です。もちろんこのお二人(お孫さんと白装束のおじいさん)は時代も異なり、全く接点はありませんが、シンクロ続きです。