ブログを始めて長いですが

人のブログをそのまま転載するのは初めてです

それだけの衝撃が彼のブログにはありました

量より質とかのレベルではない

圧倒的なものは、量だろうが質だろうが、あらゆるものを凌駕します

以下は、滋賀支部、三浦悠希のブログよりの転載です

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法律学とサッカーのおもしろさには似ている部分があると感じていた。
今日は久しぶりに法律に触れたし、それを一度まとめてみよう。
法学はあらかじめ定められた条文に基づいて起こった事象について、誰にどんな責任があるのかを、法律のどの条文が当てはまるかを考えて論理的に組み立てていく。
ただ、単純に暴行があったとしてもその加害者がどんな人物であったかや、周りの状況によって複雑になる。
簡単に例示すれば、
老人ホームに預けられた老婆が隣の部屋の老人を夜中に鈍器で殴った。
これだけだとただ単純に老婆に刑事責任であったり、民事責任があることになる。
では、もしもこの老婆が重度の痴呆症で夜中に抜け出す癖があればどうだろう。
重度の痴呆症の者は制限行為能力者とされ、責任はおわなくていいと考えられる。
では、被害者は泣き寝入りなのか
かならずしもそうではなくて、老婆の癖を知っていれば老人ホーム側にも責任は追求できると考えることができうるし、
はたまた状況が変われば加害者の家族に責任を追求することができるかもしれない。
こうして起こった事の状況に合わせて適する積み木を積んでいくように、
使える条文、使えない条文を考え、その上でなぜ使えないのか、など論理を組み立てて最終的に当てはめる条文を決定し責任を追求する。
そして、論じる相手との駆け引きに臨む。
つまり自分が持ってる積み木のブロックを使って論じる相手と駆け引きして、なにかを創造するのが法学のおもしろさであると考える。
法律学でいえば条文とは積み木のブロックなのである。
当然いろんな積み木の形の種類があること、すなわち、たくさんの条文や判例を知っている方がいろんな論理的思考や、駆け引きに有利である。
サッカーも似たようなもので論理的な思考の積み重ねだと思う。
たとえば、1対1の局面でしかけにいって相手の体重をどちらかに乗せた。
だからそのタイミングで逆をとって抜き去ろう。
これはすごく論理的な理屈が積み重なった上で相手と駆け引きした結果のアクションから生まれた作品なのだと思う。
ただ、法律学と違うのはそれを身体に伝えないといけないということ、
それと、どのブロックを使うか瞬間的な判断がともなうものであるということであって、
それは法律学にはないサッカーのおもしろさであるように思う。
さらにサッカーはその1つの局面だけでのブロックの積み重ねと駆け引きだけじゃなくて、その1つ1つの積み重ねがさらに重なって芸術が生まれる。
たとえば、トップが相手を引き連れてスペースをあけて、そこにプルアウェイしながら2列目が飛びこんだところにボール保持者がいいタイミングで対峙している相手をはずしてボールを供給してゴールまでたどりついた
そこには芸術が生まれる
感動が生まれる
なぜなら、そこには1つ1つの局面で生まれた作品の集合体が生まれているから
つまり積み木で作った素晴らしい家が1つだけじゃなくて何個か重なって素晴らしい街ができたようなものである
そこにサッカーのおもしろさと感動があると思う。

………長くなってきた
でも感じていたことを整理しながら一気に書いてしまおう!ブログはそのための道具でもあるのだから

じゃあサッカーにおける積み木のブロックとはなんだろう
法学においては条文がそうであると考えるが、サッカーの場合はどうか。
サッカーではどんな種類のキックができるのか、足のどこを使ってボールを運べるのか、といったものが積み木のブロック、それが家を作るための材料なのだと思う。
いや、もっと細かいところ。
キックの瞬間の指の形であったり、体重の乗せ方、ドリブルの前にボールのない状態でどんなステップが踏めるか、身体の使い方はどうか、
などのもっと細かい部分が質の高いプレーをするための材料になると思う。
その部分がいかにいいものか、いかに材料の質が良くて種類があるかが、いいプレーができるかできないかの違いだと思う。
そしてそれこそが子ども達に伝えなければいけない部分のうちの1つなのだと思う。
わらで出来た家を知る前に木の家を教えてあげる。
ジュニアの年代でどれだけ質の高い材料を増やせるか、細かい部分にこだわってやれるか。
そしてどれだけ質の高い家、完成品にたくさん触れるか。
質の低い材料からは質の高い家は立たない。
少ない限られた材料からたくさんの種類の家のアイデアは浮かばない。
かといって家を作ろうとしても家を知らなければ材料があっても家を作ることはできない。
だから素晴らしい家がどんなものか知る、つまり質の高いプレーを見る機会が必要。
そして、そういうたくさんのいい材料が身 についた子どもには自分のプレーに論理的な理由が生まれると思う。
「自分が右にステップを踏んでしかけたら相手が見事に右に動いたから狙い通りアウトサイドで逆にドリブルした」
など
自分は1番ダメなのは自分のプレーに根拠を持てないこと、判断がないことだと考えている。
判断を伴ったプレーをずっとずっとし続けることでうまくなると思ってる。
書いてみることでそのために大事なことが自分でも再認識できた。
だからこそ、この材料の部分を大切にすることが子ども達の判断を伴ったプレーにつながるのだと認識し、
できるだけいい材料を自分も勉強して提供できるようになろう。

ん~…結局まとまりが悪いし、自己満足になってしまった
しかもうまく伝えられてない
なぜなら自分の考えが自分の中でまだ確立されてないから。
自分以外が読んで理解ができる文章で表現できないと
しかも長くて読みにくい
今の自分はこんなもんだ
もう一度読みながら
次はもっとまとまったいい文章にできるように頭を整理しよう。

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