7月3日に遠野なぎこさんの自宅に救急隊が入ってから2週間。
7月17日に、親族によってブログが更新され、「訃報のお知らせ」として彼女が永眠したことが報告されました。
彼女はこれまで頻繁にブログを投稿してきており、それも1日に何度も更新していることから、日々の生活の状況がリアルタイムに伝わってきます。
遠野さんのブログ投稿は6月27日(20時22分)を最後に途切れますが、この日はなんと9件もの記事が上げられています。といっても、最後の日だけ極端に多いという事ではないので、ことある毎に記事を書くのが彼女の習慣だったのでしょう。投稿時間も朝から晩までバラバラなので、思うことがあればその都度文章にして発信していることが見て取れます。
ちなみに、僕は通常は記事を書いてからしばらく寝かせることにしています。書いた時の勢いでそのまま上げると、うっかり瑕疵(かし)のある文章を垂れ流してしまうかもしれない。もちろん完全には防ぎきれませんが、しばらく頭を冷やすことで、大きな「きず」があれば事前に気付く可能性があるのではないかと思って予約投稿にしています。そのため、僕のはいつ書いたのか分からないものになっていますが(2~3週間前に書いていることもある)、なぎの記事は書いたら即時公開しているものと思われます。
そのことから、彼女の身に異変が起きたのは6月27日の夜から翌朝あたりにかけてである可能性が非常に高いように思うのです。救急隊が入ったのは7月3日のようなので、空白期間は5~6日だったと推測します。
今回は、なぎこさんがブログ投稿した最後の日、6月27日の『“訪問看護の契約の日でした”』(15時22分)と題する記事について、感想を書きたいと思います。
僕は25年ほど前に見た朝ドラで彼女の事を知りました。実際に会ったことはなく、ブログ等にコメントしたこともありません。しかし、わざわざロケ地である北海道の奥地・沼田町まで行ったことがあります(留萌本線・恵比島駅/2023年に廃線)。その後も折に触れて彼女のことを考えてきました。彼女からは主に「自分を愛することの重要性」について教わったように思います。教わったといっても、講義を受けた訳ではありません。彼女を見ていて、僕が勝手に思いを巡らせたに過ぎないのであり、彼女は僕・武野朝彦の存在すら知らないでしょう。しかし、僕にとっては重要なソウルメイトの1人であると思っています。
なお、ソウルメイトの語は多義的ですが、僕となぎこのように会ったことのない人や、面識のない人(アーティストとファンの関係等)はもちろん、相手が過去の歴史的人物であるような場合にも、重要な影響を受けたような相手に対しては十分に「ソウルメイト」の関係が成り立つのです。ソウルメイトの種類や様々な態様については、飯田史彦著『ソウルメイト』(PHP研究所)に詳しく、ソウルメイトの定義に関しては決定版といえる内容だと思うので興味のある方は是非ご一読を。
一方的かも知れないけど、僕にとっては大事なソウルメイトだと思っている凪。
そんな彼女の最後の日のブログ。当該記事の最後に「あたしゃ、まだまだ生きていくぞ😊💓✨️✨️✨️」と記されているのです。
これはちょっと、見ていて切なくなりますね😢
だって、おそらくは数時間後には還らぬ人になる、という時の言葉なのだから。
ただ、これはあくまで僕から見た主観なのだけど、その言葉は表面的なものに過ぎないのではないか、という気がする。
自分はまだまだ生きていくぞ、なんて普通は書きませんよ。
それを書くのは、逆説的ではあるけれど、意識の深いレベルで死を受け入れた人、あるいは死を選択した人の言葉なのではないだろうか。どうもそんな気がするのです。
なぎこの中では、今回の人生で経験すべきことは既に終わっている。本当はそれを分かっているけど、さすがに顕在意識では十分には気付いていない。そこで何となく「まだまだ生きていくぞ」という言葉が出てきたのではないか。
僕は「全ての死は自殺である」あるいは「人は死ぬ時期を自分で選んでいる」というスピリチュアルな考え方に同意します。
これは同時に「早すぎる死というものはない」「本人の同意なく死ぬことはない」ということを意味しています。死ぬ時期を間違える人はおらず、死ぬべきでない時に死ぬ人はいないと思うのです。
ただし、その決定は顕在意識ではなく、意識の深いレベルで行っているために、顕在意識では反対のことを考えていることがあるのです。
死ぬために事件や事故が利用される場合もありますが、顕在意識で「今日、これから死ぬ」と分かっていたら、事件や事故で亡くなることが難しくなるのではないでしょうか。だから顕在意識では知らなくて良い。ただし、その場合でも薄っすらと自覚しているため、後で振り返ると不思議なことを言ったりしているのです。
御都合主義的な邪説だといわれても反論できないので、もちろん「これが真実だ」などと強弁するつもりはありませんが、個人的にはそのように考えています。
なぎこさんの当該記事(『“訪問看護の契約の日でした”』)には、自身が「人に頼る事がとても苦手」で「人に迷惑をかけることが嫌で嫌で仕方ない人間」であると述べられています。責任感の強い人だったのでしょう。訪問看護を受けるにあたっては、かなりの葛藤があったことが窺えます。
それでも、決心して訪問看護を受けることにしたのです。
「…これで良かったんだ。」
「…そりゃ少しだけ複雑だけど。」
「お世話になる事が決まって、良かったんだ。」
と述べられています。
そして、
「少し心が軽くなった気がする。」
というのです。
また、訪問看護を受けることにしたのは、愛猫を守るためでもあるとしています。
彼女の年齢(45)で、猫を守るために長生きしなければならないとは、普通はあまり言わないような気がするのですが……。
果たして、この日を境に消息を絶った彼女。
事務所に属さず、家族とも疎遠な彼女ですから、自宅で倒れた時に助けに来てくれる人はいなかったのですが、どうやらこの時の訪問看護の方から遠野さんと連絡が取れないと救急に報告されたようです。
その結果、彼女が誰よりも愛していた愛猫は無事に救出されたのです。
そこで、改めて最後の日のブログに綴られた
「…これで良かったんだ。」
「お世話になる事が決まって、良かったんだ。」
「少し心が軽くなった気がする。」
との言葉を見直すと、深い意味があるように感じられます。
ところで、27日の当該記事の一つ前の記事で、彼女は自分のことを「(世の中に対して)ほぼ影響力なんて無い」と語っています。
でも、会ったこともなければSNSのフォロワーでもない僕に対して、彼女の人生は少なからず影響を与えている。
同じようなことは、誰にでもあるのではないでしょうか。
話しかけたことはないけど、気にはなっている人というのはいますからね。こちらは認知していなくても、相手は自分のことを知っていて、自分に関して何か考えているかも知れない。ふと口にした言葉で全く記憶にないようなものでも、誰かの心に刺さって、その人の人生に影響を与えているかも知れない。
僕だって、知らない所で誰に影響を与えているか分かりませんね😅
なぎちゃんとは会ったこともなく、彼女は僕のことを全く知らなかっただろうけど、彼女の知らないところで僕は長い間彼女のことを考えてきたし、彼女の人生から学び、影響を受けてきたんだなあ。
遠野なぎこさんの最後のブログを読んで、そんなことを考えました。