サムネイル

※この記事は特定の宗教を貶めたり崇めたりする意図はありません。
 あくまで本の紹介の記事です。悪しからず。


キリスト教。

大昔から仏教にどっぷりな日本ではあまりピンとこないものですが、世界で一番信仰されている宗教です。

キリスト教の始まりは学校で勉強した通り、処女マリアから生まれたイエスがヨハネから洗礼を受け、ユダヤ教を改造した教えを各地で広げていく。そして最期にはあらぬ疑いをかけられ十字架の刑にされ死亡、しかし奇跡が起きて復活するーーと、言われています。

というわけで、今回はこの本を紹介します。






ではこの本ではどのように語られているのか。ちょっと覗いてみましょう。

ちなみにかなり読みごたえのある本でしたので、私の解釈を入れてゴリゴリに噛み砕いて書いていきます。


前提として、そもそもキリスト教の救いとはなんでしょう。

この本では「心の救い」がキリスト教、ひいては宗教の救いと言われています。

……と言われてもピンとこないので、もう少し詳しく書きましょう。この本では「(罪に対して)心からの、それも純粋に心だけの謝罪が唯一、神による救いにつながる」とあります。




サムネイル


これは私の解釈ですが、心の中で「これは悪いことをしてしまった」となったとき、神様に心から懺悔すれば神様が助けてくれる、ということでしょう。どんな罪も心から悔い改めれば神様は許してくれる。そして、そんな神様の懐の大きさに、私たちも心から感謝し救われる、ということでしょう。これをこの本では「無限のゆるし」と書かれています。

つまり、私たちは神様に生かされているわけですね。



と、ここで一つ疑問を抱く人もいますよね。




サムネイル

ごめんで済むなら警察いらないだろ!


つまり、問題はそこなのです。

実はキリスト教と法律はとっても仲が悪いのです。仮に宗教家が政治に関われば「罪びとを悔い改める」ことを目標としている本来のイエスの教えに真っ向から喧嘩を売ることになります。政治、という言葉に語弊があるのなら、教会と言い換えても良いでしょう。神父さんや牧師さんが教会を維持しようとすればどうしても利権が関わってしまう。そんなことになれば、イエスの教え通り人々を純粋に救うことができなくなるのです。

これが、キリスト教の持つ最大の矛盾なのです。




他にもキリスト教にはさまざまな矛盾や考察の余地があります。

この本ではヨハネ福音書のエピソードである「姦通罪で石打ちの刑に遭っている女と出会うイエス」を例にさまざまな観点からキリスト教を深掘りしていきます。少し難しい本ではありますが、一読する価値はあると思います。


……と、たまには難しめの本を紹介したところでこの辺で。読んでくださりありがとうございました!










サムネイル

以下リンクです