小説家志望必読

ところでみなさんは走るの好きですか?

私は大っっっっっ嫌いです。持久走なんかこの世から滅んでしまえばいいと思っている「アンチ持久走過激派」です。なんで人間は走るんですか?マラソンの起源である名も無き古代ギリシャ兵士は必要に迫られてマラトンからアテナイまでの42.195キロ走ったわけですが、この令和の世界で、なんでみんな苦しい思いして走るんですか?

と言うとマラソン愛好家さんたちにタコ殴りに遭ってしまいそうなので、マラソン大好きな人のエッセイを読んでみました。

それがこちら。村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」です。





村上春樹さんの説明……は、大丈夫ですね?
さて、この人が毎日走っていることは、ハルキストの中では常識となっていると思います。

この本は村上さんが「走る」ということについて思うことを縷縷と書いたものとなっています。村上さんにとっての走ることとはなにか。その片鱗に少し触れると、村上さんが傑作を生み出し続けられる秘訣が垣間見えるかと思います。

村上さんはどんな思いで走っているのか。それ少しだけ抜きだそうと思います。



・誰かに受け入れてもらえなかったとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走る

私がこの作品の中で一番響いた言葉です。心の傷を、体に傷をつけることで癒す。原理は自傷と同じなのに、意欲的なベクトルがまったく違う。走ったほうが生産的で前向きなのです。心のしんどさを体のしんどさにできる。それが「走る」という行動の素晴らしさなのです。 
ちなみにこの行動、科学的にも証明された正しい方法なんですよね。有酸素運動でストレス物質のコルチゾールが適度に消化される(この「適度」というのがミソです)。するとストレスがふわっと軽くなる。不思議ですね。


・ものごとの基本を着実に身につけるには、多くの場合フィジカルな痛みが必要

やかんが熱いかどうかは触ってみないと分からない、と同じことなのかな、と私は解釈しました。フィジカルな痛み、といのがポイントなのです。疲労感やメンタルのしんどさではない、肉体自身の痛みが伴ってこその基本。かなりマッチョなお言葉ですが、ああそうなのかもしれない、と納得してしまう不思議な魅力がありますね。



走ることと小説を書くことは似ている、と村上さんは繰り返し書いています。走るのも小説を書くのも、モチベーションは自分自身の中にしかないのだ、と。
これは走ったことのある人、あるいは小説を書いたことのある人には分かるんじゃないでしょうか。他人に「走れ走れー!」と言われてもそりゃ拷問ですし、小説も、「一文字でも多く書けぇー!」とせっつかれながら書くのは拷問です。(これは小説系の学校に通った人間なら分かりますねこの辛さ……うっ……)

じゃあ勝ち負けをモチベーションにすればいいのか?と思われる方もいるかと思います。マラソンなら順位、小説ならランキングですね。
ですが、長年小説家をしていて、しかもいくつものマラソン大会に出場している村上さんはそれを推奨していません。外部的基準はモチベーションになりえないのです。
そして村上さんはそもそも勝ち負けを気にしないタイプのお方。だからここまで大成したとも言えるかもしれませんね。



いまこの時代、「なろう」や「カクヨム」の登場で、小説書き人口はとんでもないことになっています。
その中で何人の人が、10年後、20年後も書き続けているのか、私には分かりません。
これからもずっと小説を書きたい、創作をしていきたいと考えている人には特に読んでほしい一冊でした。
 





以下リンクです。
 



内容
走ることについて語りつつ、小説家としてのありよう、創作の秘密、そして「彼自身」を初めて説き明かした画期的なメモワール 1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、彼は心を決めて路上を走り始めた。それ以来25年にわたって世界各地で、フル・マラソンや、100キロマラソンや、トライアスロン・レースを休むことなく走り続けてきた。旅行バッグの中にはいつもランニング・シューズがあった。走ることは彼自身の生き方をどのように変え、彼の書く小説をどのように変えてきたのだろう? 日々路上に流された汗は、何をもたらしてくれのか? 村上春樹が書き下ろす、走る小説家としての、そして小説を書くランナーとしての、必読のメモワール。