昨日から、有給をとってふらふらしている私です。1日で終わるよう綿密に計画していた検査&診察の予定が、コロナ感染で吹っ飛んでしまい、見事に3日に分かれてしまった。そのうちの2日目なのである。

 

今日は朝早くに多摩川浅間神社へ。北条政子が頼朝の武運を祈って建立したと大河ドラマで紹介されてから、一度行きたいと思っていた場所ので、癌とは関係ない。

 

ここはなかなか…こじんまりとしているが趣があって素晴らしい。登れば登るほど、見える景色が広がり、目の前に多摩川が広がる。気のせいか?どこか鶴岡八幡宮を思い出させる雰囲気がある。鶴岡八幡宮は鎌倉…

あれ?多摩川の向こうは川崎市…

鎌倉から頼朝と一緒に来て、ここで別れ、頼朝の武運を背中に向かって祈ったのなら、方向が逆ではないのか??私の方向感覚、おかしい?それとも、歴史認識がおかしい??

→訂正)パンフレットに書いていました。頼朝と一緒に行こうとした政子でしたが、足を怪我してここで断念。山に登ると富士山が綺麗に見えた。思えば自分の故郷も富士の麓の伊豆、また富士吉田には自分の守り本尊である浅間神社あるため、この地に元からあった神社に手を合わせ、夫の武運を祈った。つまり、政子が建てたわけではなく、ここにあった小さな神社に正観世音像を建て、地元の人たちに政子ゆかりの神社として広まり有名になったということらしい。

 

 

 

 

 

さて、いざ、参拝をしようとすると、涙を流しながら熱心に参拝する人が一人。人が少ない時間を選んで、朝早くに来たのだろうと思うと、あまり近づかない方がいいな、と、しばらく下の方をうろうろして待っていた。

 

若くて髪の長い女性。あれこれ詮索するのは野暮だが、神に涙して縋りたくなる時もあるだろうね。

といいつつ、私は神にも仏にも、何も頼まないことにしている。ただ手を合わせ、これまでの幸せを感謝するだけである。これは神社だろうと、お寺だろうと、お地蔵さんだろうと同じ。綺麗事を言っているのではない。私のような俗物は、お願いしたのに願いが叶わないと、逆恨みして、ご本尊なりお寺なりに蹴りを入れかねない。この行為は、倫理的にも、精神安定の上でもよろしくない。しかも、普段から神仏を崇拝する習慣はなく、例えば、多摩川浅間神社と聞けば、頭の中は鎌倉殿の13人のテーマ曲が流れ、政子の大演説シーンを脳内で反芻し、梶原景時公の菩提寺では、中村獅童を思い浮かべて「かっこよかったな~」とにやにやしているようなミーハーな私に、神仏の御加護などあるわけないのだ。

 

大事なことは、人知を超えた『何か』に向かって、ただ心を落ち着けて手を合わせる行為が、私の心を安定させてくれること。ヨガの最初と最後の礼と同じなのである。お守りは、それを見ると、参拝した時の厳かな気持ちを思い出し、心穏やかになる、そのためのものである。

 

さ、これから乳腺外科の診察へ。3時間は覚悟している。これまで、何度ブチ切れそうになったかわからない待ち時間だが、昨日の消化器外科のように、いざ卒業させられるとなると、それはそれでザワザワするので、我慢することにしよう。この病院あってこそ、今の私の命が繋がれているのだ。謙虚な気持ちで‼️