SEKAI NO OWARI ドラゴンナイトより
♪人はそれぞれ正義があって
争い合うのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の嫌いな彼も
彼なりの理由があると思うんだ
♪人はそれぞれ正義があって
争い合うのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の正義がきっと
彼を傷つけていたんだね
まだ若い(であろう)アーチストが書いた、簡単な言葉だが、日々の小さないざこざから、戦争に至るまで、全てに当てはまる的確な表現だ。
この歌詞は一部なのだが、
『休戦して祝杯をあげる』時の歌なので、真にに理解し合えたわけではないが仲良くしている状態である。
和して同せず
私の好きな言葉である。
この歌詞から、一つの小説を思い出した。
もう20年以上前だろうか、プラナリア、という短編小説が直木賞を受賞した。作者の山本文緒さんが昨年お亡くなりになったのだが、これまで読んできた小説は数知れず。
プラナリア、は乳がんを告げられた若い女性が主人公である。彼女を取り巻く『絶対に自分は間違っていない』と頑なに信じる大人たち、家族にも真意は理解されず、徐々に、社会全体に、いや、自分の生そのものにすら、違和感と矛盾を感じ始める、その深く悲しい心の闇を、淡々と述べていく文体が好きだったなぁ…
別の小説かもしれないが、確かプラナリアじゃなかろうか。『自分の正義を押し付けてくる、彼女にはそうする理由があり、私にはそれを拒否する理由がある、ただそれだけだ』というくだりがあったように記憶している。
人と人が真にわかりあうことなど、そうそうあり得ないことを癌という病気で痛感した。
告知、手術、転移再発の恐怖、辛い治療、死生観
癌患者ですら、みんなそれぞれ、抱えているもの、優先すべきもの、苦しみの度合いは異なるのだ。まして、がんの経験のない人にわかってもらえるはずなどない。同様に別の病気の患者の気持ちは、おそらく理解できないのだろう。
それでも想像ならできる。
つい、自分が犠牲者という立場で物事を考えがちだが、小説に教えられ、流行りの歌に教えられ、ふと、自分の正義が人を傷つける可能性を考えるようになる。
真に自分を理解できるのは自分だけ。生きるのも死ぬのも1人なのだ。もちろん、家族の愛情、友人の優しさに触れる瞬間、心は温かくなり、その経験が多いほど心は満たされ安心感に包まれるだろうが、それは『和』である。同じにはなり得ないし、なる必要もない。そう思うと気楽に生きられるのではないだろうか。最も心乱されるのは、自分が理解してもらってない、故に相手が思うように動いてくれない時である。想像には限界があり、100%同じ考えに至ることなど、あり得ない。
ただ、価値観の齟齬が生じても『和』を保てるのが、家族や本物の友人である。喧嘩しててそれで終わりになる人はそこまで、と線引きをする。期待と依存をやめることで(ある意味、人間関係の断捨離である)随分生きやすくなると思いませんか。