有益な知識、真実を知っていないとすごく人生損をしているような気がして、


そう思うとなんか焦っちゃって、次から次へと情報を求めてしまうのですよね。




私は自分のそれを「知りたい知りたい病」と呼んでるんですが。笑




で、なんか結局自分のスペックでは情報処理しきれないところまでいって、


電源オフ。(しーーーーん。)みたくなる。




でもね、まあそれもまたプロセスのひとつであって。



この(しーーーーん。)とした静寂に浸ってはじめて、


ふと気づくことがあったりもするから面白い。






探して探して、ある一つの真実にめぐり合えたとして、


それがもし自分にとって全く役に立たないものだとしたら、


必要なくない?と思う。




例えばさ、「真実しか語りません。」という神様のような存在に



「あなたの前世はモグラです。それが真実です。」



って言われたとして、、、




その情報、なんの役にも立たないよねw



真実だとしても私なら記憶から抹消するよw




なんでもいいんだけど、



結局自分というセンサーに反応しなければ、


真実も全く無益だということ。






最近このブログで「すべては自分の中にある」とか


「必要なことは何かすでに知っている」というようなことを書いてきたけど、



あれ、そういうことか?と思った。




自分に思い当たるというか、心にひっかかるものがなければ素通りしちゃうんだよね。


ていうかそれでいいんだと思った。




だから、様々な情報が氾濫している中で、


何を信じたらいいんだろう、と不安になってしまう時は


自分を信じられなくなっている時なんだと思う。




もしね、信じたそれが(一般的に)間違った情報だとしても


それが自分にとって有益な何かをもたらすなら、それを採用すればいいんじゃない?と思う。


たとえプラシーボと言われようが。





「全ての出来事に意味はある」と思う?



「全ての出来事に意味はない」と思う?




どちらが真実なのだろうかと見極めることは重要じゃなくて


どちらを信じれば「より自分が豊かに」生きられるだろうか


という視点で情報を取捨選択していけばいいんじゃないかなと思った。






ていうか私たちはもともと自然にそうやって生きてるような気がする。




ちなみに余談だけど、私の旦那さんは私の言うことをたいてい信じるんですね。



だけどこの前、なんでか忘れたけど

悪口でも言おうと思って



「マユゲつながってるよ!」




ってウソ言ってみたんですけど、ぜーんぜん動じなかったです。






それは、旦那さんの心にひっかかるワードじゃなかったからですね。



自分のマユゲはつながっていない、と自分の心が信じていたからですね。



もし何か思い当たるフシがあったとしたら、


あわてて鏡見に行きますよねw






情報の真偽を感じとるセンサーというのは、


意外とこんなシンプルな事なんじゃないかな、と思いました。









何処かで読んだ言葉だとしても



誰が何と言おうとも



たとえ、私の言った言葉であっても



汝自身の理性と常識にそぐわないかぎり



信じてはならない。




仏陀