日本人と犬・猫の関わりは万葉以前の昔からあるという。だが、歌として多く詠まれはじめたのは明治時代以降、西洋からの多数の輸入によって日常の身近なペットとして広く普及しだしてからだ。近代の犬・猫の歌を、まずは石川啄木と若山牧水に探ってみた。

・わが泣くを少女等きかば/病犬の/月に吠るに似たりといふらむ
・愛犬の耳斬りてみぬ/あはれこれも/物に倦みたる心にかあらむ
・われ饑ゑてある日に/細き尾を掉りて/饑ゑて我を見る犬の面よし
・時ありて/猫のまねなどして笑ふ/三十路の友のひとり住みかな
 石川啄木『一握の砂』

・猫の耳を引っぱりてみて、/にゃと啼けば、/びっくりして喜ぶ子供の顔かな。
・猫を飼はば、/その猫がまた争ひの種となるらむ、/かなしきわが家。
 〃『悲しき玩具』

病犬に例える自己の泣き声、犬の耳を傷つける行為…啄木は犬をあまりよくは思っていない。どこか卑近なものとして見ている感じがする。三首目も飢えた犬と自己との比較で、よしと思いつつも犬を自己よりも格下のものとして見ている。自分はそんな犬そのものなのだという自虐心理が底辺にある。

一方、猫にはそうした思いは少ないようだ。四首目は独り住まいの寂しい友の仕草としての猫の鳴き真似、五首目の対象は子であって猫が主ではない。
しかし、それでも猫はどこか暗いイメージの生きものとして扱われていて、六首目などは家庭が明るくなるよう期待して飼った猫さえもが、また平和を乱す存在になってしまうという、なんとももの悲しい現実である。

また、「庭のそとを白き犬ゆけり。/ふりむきて、/犬を飼はむと妻にはかれる。」が犬の歌でよく引き合いに出されるが、どこか明るさを含んでいるこの歌でさえ、もし石川家で犬を飼えば五首目の猫と同様な結果になりそうな気がしてならない。(ちなみにこの歌は『悲しき玩具』の最後の一首とされているが、実はこの後に書きかけの一行で終っている未完の歌がある。)

では、牧水は犬猫をどううたっただろう。
・枯草にわが寝て居ればあそばむと来て顔のぞき眼をのぞく犬
・ゆふまぐれ遊びつかれてあゆみ寄る犬と瞳のひたと合ひたる
・指に触るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ
 若山牧水『路上』

・子を生みし疲れか暫し吠ゆることを忘れし犬がいま吠えにけり
 〃『黒松』
・秋のおち葉栴檀の木にかけあがり来よと児猫がわれにいどめる
・猫が踊るに大ぐちあけてみな笑ふ父も母も、われも泣き笑ひする
 〃『みなかみ』

草の上に寝ているところを親しげに覗きこんでくる犬、近づいてくる犬との見つめ合い、犬の毛をまるで言葉に触れるようにさわり、産後で疲れている犬が久しぶりに吠えたその瞬間をうたう…

牧水は犬を自己と同等に見ている感じがする。五首目の猫も同様に仲間のような親しみで見ていて、もう完全に子猫と同じ世界に戯れている。六首目は、その前後の歌を読めば、母との口論や父を罵る姉の歌とかもあって、若山家もまあ大変だなと思わせるところもあるが、そうしたムードを和らげる清涼剤のように、愉しげなこの一首が挟まれている。

また、この他に、鶏を盗む猫のために毒薬を盛る父母とか、その猫を殺して埋めたという歌も続くのだが、それはどこまでも日々の暮らしのためであり、啄木の虐待のような病んだ精神の対象としての犬猫は見当たらない。

自然とはあまり親しまなかった啄木。自然の中で育ち、自然とともに生きた牧水…生きものは自然の一部だから、犬猫の話となれば牧水の方がその親和度が高いのは当然だろう。もとより予想通りのような気もするが、啄木と牧水のその犬猫観にはかくも大きな相違が見えてくる。

さらに時代が進むと、歌人たちはより落ち着いた日常の視点から犬猫を仔細に詠みはじめる。

・目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ
 斎藤茂吉『つきかげ』
・チョコレートかみつつ猫のたたかいを聞きおりたのし老懶われは
 坪野哲久『人間旦暮』
・寝るまへのこころすなほになりきたりふところに猫をいれて枕す
 筏井嘉一『荒栲』
・胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき
 葛原妙子『原牛』
・毛ほどの隙も見せずに歩み去る老の白猫がわがこころ知る
 前川佐美雄『松杉』

一首目、子犬たちを実に優しい目で見つめている茂吉がいる。「賢くなれよ」に、自身が歌で戦争に荷担した苦い反省という説もあるが、ここは生きものの先輩としての素直な心で子猫に送ったエールとして私は読みたい。

二首目、猫たちの喧嘩声をわれ関せずとのんびりチョコをかじりつつ愉しんでいる哲久の心。老懶とは年老いて体を動かすのが大義なことだ。三首目は懐に入る猫に安らぐ心を素直にうたう。四首目、葛原は猫の脳髄さえも幻視し、瞑想する猫を思ったようだ。五首目、毅然として歩み去る老猫の行動に心を通わせる佐美雄。いずれもどこか心に余裕をもってゆったりした心で犬猫を見つめている。

そして現代、犬猫は「コンパニオンアニマル」という概念でもって我々と暮らしをともにしている。すなわち「暮らしの伴侶、人生の伴侶」としての生きものである。
ひと昔前の「ペット」という語には所有物、愛玩物的な意味合いが強いが、コンパニオンアニマルはそれとは全く違う。衣食住に気遣い、話し掛け、ともにテレビを視聴し、外出をする共同生活者としての生きもので、もちろん溺愛とはまた別のことだ。

震災などの際、動物保護団体が現場に取り残された犬や猫を救済する活動がニュースになるのは、こうした概念が普及している証左とも言えるだろう。ひと昔前なら「人の命さえ危ないときに犬猫の保護なんぞに構ってられるか」となっているところだ。
ペットから人生の伴侶へ出世(?)したそんな犬猫を現代の歌人はどう見つめているのだろう。

・何もせず嗅ぎに来てから立ち去ることを猫のモモおぼえたり
 高瀬一誌『火ダルマ』
・ま夜中に物食ふ犬の歯牙の音いさぎよきもの覚めて聞きをり
 安永蕗子『褐色界』
・若き日は猫にもありてあたへたる木天蓼のこなにわれをうしなふ
 小池光『現代短歌』2014年9月号

「観察眼」の歌としてくくってみた。一首目、猫の仕草をまるで人の子のようにしっかりと観察している。二首目、深夜に聞こえて来た犬の物食う歯音をいっそいさぎよいと感じたのだろう。

三首目はマタタビに夢中な猫への目。「猫にも」としたことで、人にもこういう時代はあるよなあという感慨を含ませてより味わい深い歌となった。

・春幹に爪とぐ猫を笑ひ合へばこちらを見たりまじまじと見る
 花山多佳子『春疾風』
・庭隅のペットの墓に陽の当り猫が来犬が来て座りをり
 富小路禎子『幻の花』

これらも観察の歌だ。爪を研がないことには伸び続けて支障が出てしまう猫にしてみれば「爪研ぎの何がそんなにおかしいの?」と真面目に怒っているのだろう。二首目はどこかウソっぽいけれども事実だ。まるでしんみりした短編映画を観ているような気分になる。
・地を這ふ夢の中をひたせり真夜中にみづ飲む猫の舌ならす音
 尾崎まゆみ『明媚な闇』
・やはらかく畳のへりを踏んでゆく猫の足音のなかに覚めたり
 大辻隆弘『夏空彦』
・夜のふけに犬は鎖の音ひきて眠りのかたち選びゐるらし
 尾崎左永子『夕霧峠』
・昼寝するわが上にきて仔猫ありそのほどほどの体重ぞよき
 浜田康敬『家族の肖像』
・少年はわが少年の留守にきて帰りぬ犬としばらく話し
 中野昭子『夏桜』

日常の暮らしに溶け込んでいる犬猫たち。一、二首目、猫のたてる舌や足の音と睡眠はどうも歌と相性がいいようだ。三首目は犬の動きによって音を立てる鎖からの寝床での想像。四首目、生き物と接すると人は心が落ち着くというセラピー効果そのままの歌だ。五首目、目当ての友だちがいなくて所在なく犬と話している少年の姿が見えるようだ。

・猫の舌いく枚のびて来たりけり午睡の夢のうたた寝の中
 内藤明『海界の雲』
・永遠に不平屋としておれはゐる 濡れし鼻面を寄せる巨犬
 岡井隆『神の仕事場』
・雨降りの仔犬のやうな人が好き、なのに男はなぜ勝ちたがる
 栗木京子『夏のうしろ』
・花の奥にさらに花在りわたくしの奥にわれ無く白犬棲むを
 水原紫苑『あかるたへ』
・イヌつけてブナもサクラもサンセウもやや劣る意とするあからさま
 今野寿美『雪占』

「喩や抽象としての犬猫」でまとめてみた。一首目、昼寝の夢の喩としての猫の舌。二首目、不平屋と巨犬のイメージ、さらに「その濡れし鼻面」ときて、両者の重なり具合が見事に決まった。三首目、雨に濡れそぼる仔犬のような男だなんて、なんという巧みな比喩だろう。四首目は自己の心の奥底に棲む喩としての白犬、これもイメージがとてもうまく重なっている。
五首目、「犬」の持つ意味の発見。イヌブナ、犬桜、犬山椒…犬死になんていう語もあるし、なるほど確かに犬には「やや劣る」という意味が含まれている。

では、猫はどうか。猫に小判、猫かぶり、猫のひたい、猫なで声、猫も杓子も…どうも犬ほど悪くは使われていないようだが、化け猫、猫ばば、猫又など、その怪しい仕草や姿態に由来する語もまた多くある。

小池光の『現代歌まくら』の「犬」の項には「人間同士のコミュニケーションは、なにより言語による。人間と動物のコミュニケーションは言語によらない。言語という不定型なものを媒介とせず、同じ生きものとして、いのちといのちが直接に触れ合い、交流する。こういう高度の情報化社会になってくると人間同士のコミュニケーションより、動物たちとのそれの方が手応えがあり、信頼できるように思われてくるのは必然でもある。ただのペットではなく、人間に「自然」を回復する回路として切実だ。短歌でも、犬、猫の歌はたくさんあるけれど、今後もより一層、ますます歌われていくに違いない。」とある。

小池の言う人間同士の言語によるコミュニケーションで直接会話以外の現代の手段は、電話、手紙はもちろん、メール、ツイッター、フェィスブック、そしてラインと、もう充分すぎるほどにそろっていて、人間はそのやりとりに日々、余念がない。

それでも動物たちとのコミュニケーション熱は廃れることがない。インターネットでは世界中のおもしろおかしい動画が並んでいて特に動物系が人気だ。そこには「全力でお散歩を拒否する犬」「幼児と同じポーズでご主人の帰りを待つ猫」「仲間の背中を押して風呂に落す猫」「赤ちゃんのためにゴロンとなったハスキー犬」など、思わず笑ってしまう傑作をいつでも観ることができる。ユーチューブでもテレビでも同様の動画は大人気だ。
こうした点からも人と犬猫との共同生活は、今後もさらに広がってゆくと確信できる。
最後に私が知った犬猫の歌で最も印象に残っている犬の歌、猫の歌を引く。

・糞をする犬をつつめる陽のやうなごく自然なる愛はむづかし
 小島ゆかり『ごく自然なる愛』
・肛門をさいごに嘗めて目を閉づる猫の生活をわれは愛する
 小池光『滴滴集』

いずれも初句いきなりのダーティ感に引きそうになる。だが、その扱いにくい言葉たちをこれほどまでに清らかにかつ大胆に浄化させ得て詠んだ歌を私は他に知らない。
さて、犬と猫、あなたはどちらが好きですか?。

・犬と猫どちらが好きと問ふ人ありパンもごはんも好きなわたしに
小島ゆかり『泥と青葉』

※「心の花」2016年3月号特集「犬の歌・猫の歌」に加筆修正。