おはようございます。
地域リハビリのスペシャリストを目指すたけじゅんです。
今日は、娘が熱発したため急遽お休みをいただいています。無理なお願いをいつもきいてくださる職場に大変感謝しています。
しかし、職場の中にはこうして休むことに理解が得られないことも度々あります。
先日、京浜急行の脱線事故があった日に、電車もバスもタクシーも使えず、保育園に行けないためにお休みしたことがありました。
自分の部署のスタッグの方は事情を理解してOKしてくださりましたが、他部署では「私だって子供を預けて来ているのに!」「パートの私が来てて職員が休んでいいわけ?』という否定的な感情を抱いた方が少なくありませんでした。
こんな状況では、今後子供のことで休みにくくなってしまいます。個人的にはサービスの質のためにも、家族のために休んだり、定時にあがれる職場環境になることを望んでいますが、実現するためには、この問題を乗り越える必要がありそうです。
まず自分の思いとしては、仕事でのサービスの質は、プライベートが充実し、余裕がないと向上していかないと思っています。自己犠牲を強いたままで仕事をすると、どうしてもストレスを感じ、発想も乏しくなってしまうように感じます。
一方、この件で否定的な意見を言っていたスタッフ達は、仕事のサービスの質の向上を目指している点では共通しています。ただし、時間をたくさんかけることで、いいサービスが提供できると考えており、逆を言えば、残業しなければ現状のサービスの質を維持できないと考えています(因にこの場合の残業は大抵サービス残業です)。
お互い目指している方向性は、仕事のサービスの質の向上ということで共通していますが、そのアプローチは異なっています。
これらの人達が、自己犠牲を強いてしまう背景として、当施設の基本理念でもあるキリスト教社会福祉の『奉仕の精神』の影響が考えられます。もちろん、キリスト教社会福祉自体の考え方は、高い知性と慈悲深さを併せ持つ素晴らしい理念だと思います。問題なのは、それを唯一の正義として強要してしまうことにあるのだと思います。長い間、基本理念として刷り込まれて来ていますので、視野が狭くなってしまっていることに当人達は気づいていません。
過去にもあの手この手で気づきを促してきましたが、なかなかこの問題に対してうまくアプローチできていませんでした。
が、先日の信念対立解明アプローチの研修で、講師の京極真先生にご意見を伺うことができました。そこで提案していただいたのが、「極論を考えてみる」こと。極論とはその理論を突き詰めていき、最終的にたどり着く論理を指し、この場合「残業時間が多い=サービスの質が高いこと」をつきつめると、「残業時間が多ければ多いほどサービスの質が向上するなら、家に帰らなければいいじゃん!」という点に行き着きます。「でもなんで家に帰るの?」という質問で、家庭の大切さに気づいてもらう。もちろん言い方には気をつけなければいけませんが、今まで気づいてもらえなかった気づきを促せるかもしれません。当人達が、家庭の大切さを再認識すれば、今回のような対立も生じにくくなると思います。
願わくば、利用者にとっても、働く職員にとっても気持ちのいい職場になるように、気持ちの面の基盤を作っていきたいと思います。
地域リハビリのスペシャリストを目指すたけじゅんです。
今日は、娘が熱発したため急遽お休みをいただいています。無理なお願いをいつもきいてくださる職場に大変感謝しています。
しかし、職場の中にはこうして休むことに理解が得られないことも度々あります。
先日、京浜急行の脱線事故があった日に、電車もバスもタクシーも使えず、保育園に行けないためにお休みしたことがありました。
自分の部署のスタッグの方は事情を理解してOKしてくださりましたが、他部署では「私だって子供を預けて来ているのに!」「パートの私が来てて職員が休んでいいわけ?』という否定的な感情を抱いた方が少なくありませんでした。
こんな状況では、今後子供のことで休みにくくなってしまいます。個人的にはサービスの質のためにも、家族のために休んだり、定時にあがれる職場環境になることを望んでいますが、実現するためには、この問題を乗り越える必要がありそうです。
まず自分の思いとしては、仕事でのサービスの質は、プライベートが充実し、余裕がないと向上していかないと思っています。自己犠牲を強いたままで仕事をすると、どうしてもストレスを感じ、発想も乏しくなってしまうように感じます。
一方、この件で否定的な意見を言っていたスタッフ達は、仕事のサービスの質の向上を目指している点では共通しています。ただし、時間をたくさんかけることで、いいサービスが提供できると考えており、逆を言えば、残業しなければ現状のサービスの質を維持できないと考えています(因にこの場合の残業は大抵サービス残業です)。
お互い目指している方向性は、仕事のサービスの質の向上ということで共通していますが、そのアプローチは異なっています。
これらの人達が、自己犠牲を強いてしまう背景として、当施設の基本理念でもあるキリスト教社会福祉の『奉仕の精神』の影響が考えられます。もちろん、キリスト教社会福祉自体の考え方は、高い知性と慈悲深さを併せ持つ素晴らしい理念だと思います。問題なのは、それを唯一の正義として強要してしまうことにあるのだと思います。長い間、基本理念として刷り込まれて来ていますので、視野が狭くなってしまっていることに当人達は気づいていません。
過去にもあの手この手で気づきを促してきましたが、なかなかこの問題に対してうまくアプローチできていませんでした。
が、先日の信念対立解明アプローチの研修で、講師の京極真先生にご意見を伺うことができました。そこで提案していただいたのが、「極論を考えてみる」こと。極論とはその理論を突き詰めていき、最終的にたどり着く論理を指し、この場合「残業時間が多い=サービスの質が高いこと」をつきつめると、「残業時間が多ければ多いほどサービスの質が向上するなら、家に帰らなければいいじゃん!」という点に行き着きます。「でもなんで家に帰るの?」という質問で、家庭の大切さに気づいてもらう。もちろん言い方には気をつけなければいけませんが、今まで気づいてもらえなかった気づきを促せるかもしれません。当人達が、家庭の大切さを再認識すれば、今回のような対立も生じにくくなると思います。
願わくば、利用者にとっても、働く職員にとっても気持ちのいい職場になるように、気持ちの面の基盤を作っていきたいと思います。