こんばんは。
地域リハビリのスペシャリストを目指すたけじゅんです。
だんだん暖かくなってきましたね。

慢性期の中途障害者の自立支援をしていると、機能的にも環境的にも充分なのに、ためらって行動に移せず、支援にヤキモキすることがあります。たくさんの方が頑張って自立して行くのを見ていたからこそ、期待してしまい、歯痒く感じてしまいます。
これらの原因の多くは、身体機能や認知機能の評価では捕捉できないよりメンタルでナラティブな要素が関連しています。
最近漸くこれらの原因について、対話を通じて把握できるようになってきたように感じます。
でも、あともうワンステップ足りていなかったことに気づきました。
それは、弱い気持ちを受け入れる事。
把握するだけじゃなく、認めて受け入れる事。

自分にとってこれはなかなか難しい事で、もったいなさなどの自分の気持ちが先行してしまい、感情が受け入れてくれません。自分をフラットにできない不器用さが邪魔をします。

そんな自分に先人の教えを引用。


目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中で他よりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分がお互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(新約聖書 コリントの使徒への手紙より)


いいところも悪いところも全部含めてその人らしさであり、魅力なんだなぁと、そんな当たり前の気持ちをこれからも大切にしていきたいと思います。