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みなさん、こんにちは。。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日もフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界それ自身を普遍的な学的考察対象とすべきこと」について触れた部分を扱っていきます。

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この机がたしかに机であるんは、<私>がたとえば、それにむかって原稿を書こうという”実践的関心”を持ち、机いう対象がその関心に適うもんとして存在する限りにおいてなんや。これを逆に言ってみよか。

いま目の前に”机”がある。この机が確かに机であると確証されるんは、<私>がそこに向かい何かを書いてみる(あるいはそこでものを食べたり)いう行為を通じてのみや。さらに、もし人間が書いたり、座ったり、食事をしたりいう”関心”をそもそも持たへんかったら、およそ机いうもんは存在せえへん。机いうんは、人間の”そこで書いたり食べたりするいう関心”にとって適うもん、としてだけ存在するもんやからや。

ほんなら、机の材料である木の存在(自然存在)はどうなんや、とひとは問うやろう。しかしこれも同様なんよ。「樹木」は人間存在に関係なくそれ自体として存在する、とぼくらは一般的に考えとる。せやけど、あらゆる「自然存在」は、歴史的に、人間の利用可能性、ほんでそこから導かれる分類可能性において把握されてきたもんにすぎへん。

海、陸地、山、河、草原地、砂地、森、林、樹木。これらの分類は、移住したり、魚や獣などの食べもの、水や温暖の地いうようなよい環境を求めて生きるいう、人間の一般的な”関心”に沿って作り上げられてきたもんや。樹木と草花、生物と無機物、こんな分類すら、人間の「実践的関心」にとって形成されたもんなんよ。ミシェル・フーコーが言うように、自然存在はもともとは切れ目のない連続体であって、人間の実践的関心がそこにさまざまな切れ目(分節線)を入れたんよ。

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。この部分はあと少しなのですが、あまり長くなってもなんなので、ここで「切れ目のない連続体に分節線を入れ」たいと思います。ではまた次回。