つねにすでにある「世界確信」Ⅲ(再び『危機』解説その6) | takehisaのブログ

takehisaのブログ

ブログの説明を入力します。

みなさん、こんにちは。。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日もフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界それ自身を普遍的な学的考察対象とすべきこと」について触れた部分を扱っていきます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

つぎのようなフッサール先生の言葉は生活世界の意味の本質をもっともよく示しとる。

 

世界(生活世界)は、目ざめつつつねに何らかの仕方で実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれに、たまたまあるときに与えられるというもんやなくて、あらゆる現実的および可能的な実践の普遍的な領野として、地平として、あらかじめ与えられとる。生とは、たえず<世界確信の中に生きる>いうことや。<目ざめて生きている>いうんは世界に対して目ざめているいうことであり、世界とその世界の中に生きている自分自身を「意識している」いうことであり、世界の存在確実性を真に体験し、現に遂行しているいうことや。(『危機』第37節)

 

ここでフッサール先生の言うたはることの力点はふたつある。ひとつは、生活世界では、人間はつねにすでに自分と、自分のまわりの世界の存在確信のなかにあるいうこと。つまり自分や世界の存在を疑うような態度は、いうたら生活世界からいったん身を引き離すようなある特殊な態度やいうこと。もうひとつは、これがいちばん重要なんやけど、人間の生の意識がつねにすでにそういう確信であることの”意味”や。人間存在は「目ざめている」限り、意識するかせえへんかにかかわらず、「つねに何らかの仕方で」まわりの世界に実践的な関心を向けとるような存在や、いうことを意味するんよ。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。[つねにすでにある「世界確信」]はこれでおしまいです。次回からはここをさらに深めていきますが、長いのでまた何分割かします。それでは、また次回。