つねにすでにある「世界確信」Ⅰ(再び『危機』解説その5) | takehisaのブログ

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みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界それ自身を普遍的な学的考察対象とすべきこと」について触れた部分を扱っていきます。

 

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生活世界は、その主観性、相対性のうちにありながら、じつはそれ自身の「普遍的構造」を持っているんよ。このことから、生活世界こそが学的な対象とされなあかん。フッサール先生のこの発想は、もちろん<主観-客観>図式を取り払うっちゅうはじめの前提からまっすぐに導き出されたもんや。

 

<主観-客観>図式は、学的に奇妙な難問や矛盾を露呈させてきた。フッサール先生によれば、生活世界における人間の相対的な主観性それ自身の普遍的構造を解明することによって、このさまざまな矛盾を一貫して説明し、理解できる道が開けることになるんよ。

 

客観的な「空間」と「時間」が存在する。実在の真の秩序が存在する。世界の総体は客観的因果関係の網の目として存在する。近代科学のこういった世界像は、必然的にひとびとの生活世界から遊離し、むしろときには生活世界を圧迫するような性格をもったんやけど、この新しい”普遍学”の視線は、近代科学の論理的矛盾を解明し、しかも近代科学の成果を全く別の仕方で生活世界へ結びつけることになるやろう。フッサール先生はそう説かはるんや。

 

こうしてフッサール先生は、『イデーン』で素朴な世界像(自然的態度)の特質を現象学的に描き出したのちそれにエポケー(判断停止)を行なって<還元>の作業をすすめたのと同じように、ここでは「生活世界」の特質をはじめに示し、これを<還元>することになるんよ。

 

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。今日は短いですがここまでにしておきます。今年がみなさんにとってよい年でありますように。ではまた次回。