生活世界と客観的世界、どっちが「学的」対象?Ⅰ(再び『危機』解説その3) | takehisaのブログ

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こんにちは。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界と客観的理念的世界との関係」について触れた部分を扱っていきます。

 

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生活世界は、人間がそこで日常生活を営む具体的世界や。せやけど近代の実証主義のプロセスを通じてそれは、あいまいで相対的な、主観的な世界と見なされるにいたったんよ。これに対して学的な理念的世界は、もともとは具体的な世界からの抽象物にすぎへんのに、厳密で確かな法則や公理が成立している客観的な世界と考えられるようになった。

 

近代の実証主義が作りあげたこの構図は、生活世界が主観的で相対的な世界であるっちゅう理由で、これを学の対象から追放してしもうた。生活世界から取り出された因果連関や法則としての論理的で抽象的な世界、これだけが普遍的な領域として学の対象とされるもんと見なされるようになったんよ。

 

せやけどよく考えてみると、生活世界は[学に先だって、人類にとってつねにすでに存在していた](『危機』第33節)。じつは、学的世界にその普遍性や厳密性を保証してたんは、いつも生活世界のほうなんや。学的世界の普遍性とは、現象学的にはひとつの<超越=ノエマ>であって、これは原理的に人間の意識の具体的な<内在>によってのみ確かめられ(妥当を与えられ)、せやからまた疑いうるもんにすぎへん。

 

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。[生活世界と客観的世界、どっちが「学的」対象?]のところは長いので、今週は一旦ここで区切らせていただきます。続きはまた次回。よろしくお願いします。m(_ _)m