『危機』の中心問題(再び『危機』解説その1) | takehisaのブログ

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こんにちは。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。ここしばらくは『デカルト的省察』に触れた部分を扱ってきましたが、今日は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)に触れた部分です。

 

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ガリレイの測定術から近代的心身二元論までの過程をたどってフッサール先生が描き出したんはつぎのようなことやった。

 

近代社会は、人間の自由な理性によって世界をとらえるいうかつてない試みを行ったんやけど、そのことでひとつの独特な<世界像>を形成したんよ。この世界像の特質は、<主観-客観>図式による世界の対象化、計量化、理念化いうことにつきる。せやけどここには、ある根本的な誤りが存在しとった。この誤りは、理論的には、近代諸学の”危機”いうかたちで現れたんやけど、もっと本質的には、人間の具体的な生活世界と学的な理念的世界の関係の転倒、理性によって世界を認識することの”意味”の空洞化いうことを生じさせたんよ。

 

ここからフッサール先生は「生活世界」の現象学いう課題を提出するんやけど、このテーマこそ『危機』いう書物の中心問題なんや。

 

ここでもフッサール先生の論述の順序をあらかじめ示しておこか。もちろんこれも簡略化のためにアレンジしとる。

 

1.「生活世界」の現象学の意義について。
2.生活世界の学と客観の学の関係について。
3.生活世界とそれ自身を普遍的な学的対象とすべきこと。
4.生活世界、人間の具体的生における「根源的意味形成の謎」。
5.まとめ。

 

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございます。次回は[1.「生活世界」の現象学の意義について。]の部分の、再び『イデーン』に触れたところを「関西弁訳」していきます。よろしくお願いします。ではまた次回。