フッサール先生の「他我論」の弱点Ⅰ(『デカルト的省察』解説その6) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。毎回繰り返しますが、このブログは、『現象学』という「自分はどう感じるか」がら「出発して」それをつきつめていったフッサールという哲学者に始まる哲学の解説書(竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス)を「関西弁訳」して親しみやすくしようとする試みです。前回まではフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)を扱っていましたが、今は同じくフッサールの『デカルト的省察』を扱いますのでよろしくお願いします。m(_ _)m

 

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フッサール先生の「他我」論には大きな弱点があるように思えるんよ。ここでフッサール先生の考え方を要約して、その問題点や難点を挙げとこか。「他我」経験の現象学的解明の手順は、ほとんど次のように要約できる。

 

1.<私>の「世界」(例.リンゴ)と<彼>の「世界」(例.リンゴ)はなんで同じもんになるんか。
2.<私>は自分の<身体>と<私>との関係(ここには根源的呈示だけでなくそれによって構成されたノエマ=身体(間接的呈示)がある)を、他の<身体>に直接移し入れて、他の<身体>-心を類推する。このとき両者の<身体>には共に属することがもう直感されとる。
3.<私>の「リンゴ」と<彼>の「リンゴ」は、この共に属する<身体>に媒介されて、<私>にとっての「そこの」リンゴ、<彼>にとっての「ここの」リンゴ」、っちゅう同一性を得る。
4.<私>-<彼>のこの関係は、<第三者><おおぜい>へと拡がっていって。そっから客観的空間、時間、客観世界、文化世界、歴史世界っちゅう確信へ至る。

 

フッサール先生の言わはることを具体的な話にしてみよか。まず幼児は、自分の<心>の動きとの対応関係(根源的呈示作用)によって自分のからだと、そうでないもん(=動くおもちゃ、虫、猫)などを区別するやろ。幼児の目にはお母さんの像が繰り返し入ってくるわな。幼児はその動くもんを、自分のからだに似たもんやと思う。そこからその存在を自分と同じ<心>を持った存在やと感じる・・・。

 

フッサール先生の考え方は、決して発達論的に述べているわけやないけど、それでも、こういうふうに受け取られる余地をどうしても持つんよ。

 

論理的に言うと、もっとも難点なんは、<私>の身体了解の「類比」として<他人>の身体が了解されるいうところやろう。この説はけっして「いわゆる感情移入」説やないけど、それでも発生論的なイメージからは大変奇妙なもんになるんよ。

 

蛇足になるけど、ぼくの考えでは、フッサール先生の「他我」論のこういう難点の本質的原因は、フッサール先生が、<知覚>直感を「他なるもの」の了解の第一起点(原的なもの)にした点にあると思うんよ。せやけどこのことは現象学の発想が誤ってることを意味しとるわけやない。ぼくの見るところでは、現象学の方法を徹底するんやったら、「他なるもの」の了解において第一起点(原的なもの)になるんは、<知覚>直感よりも、情動的所与なんよ。

 

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なんだかいいところで終わってしまいましたね(笑)。次回で『デカルト的省察』の解説は一区切りして、また『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)と『イデーン』に触れていきます。ではまた次回。