フッサール先生の「他我論」の弱点Ⅱ(『デカルト的省察』解説その7) | takehisaのブログ

takehisaのブログ

ブログの説明を入力します。

すみません、更新が遅れてしまいました。前回は、フッサールの他我(自我の反対、他者の自我)論の弱点は、「他なるもの」の了解において原的なものを<知覚>直感としたことから起こり、その原的なものは<知覚>直感ではなく情動的所与だと、今「関西弁訳」している『現象学入門』(NHKブックス)で著者の竹田青嗣さんが述べていました。「関西弁訳」を続けます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

メルロ=ポンティやJ・デリダみたいに、<知覚>直感を「身体」や「言葉」によって”構成”されたもんやと考えるんは、現象学的には、<客観>から<主観>を説明することになって、論理に反することになるんよ。せやけど、ぼくの言う「情動的所与」は、つねにすでに意識の<内省>によって見出される所与やし、フッサール先生が強調するみたいな、それ自身をさらに疑うことができへんような「原的な所与」所与なんや。

 

またこれは、<意識>の自由な志向力にとって、どうこうできへんような対象でもあるな。さらに言うと、たとえば「痛覚」いうんはある感官がうけている刺激の認知=知覚やなくて、”痛い”いう情動の所与を必ず含むんよ。

 

ある種の精神病者は、ふつうの人間やったら苦痛として感じる感覚を、単なる感官知覚としてしか受けとらへん。このことが意味しとるんは、いわゆる<知覚>いうんは、情動の所与なしでは”構成”されへんいうことにほかならへん。ある感官が、「痛い」、「熱い」、「甘い」、「苦い」といった<知覚>として受けとめられるためには、その情動の所与が必要であり、その逆ではあらへん。

 

他声妄想のケースでは、じっさいには存在せえへん他人の声が、聴覚<知覚>みたいにありありと聴こえる。これは、<知覚>がじつは聴こえていなかったかもしれへん、いう<超越>(=構成)でありうるんやけど、聴こえたと感じたいう情動の働きは、最後の不可疑性(内在)であることを示しているんよ。

 

ともあれ、フッサール先生の「他我論」は、<知覚>と意識の根源的な関係(志向的統一の関係)を土台に据えることによって、<私>の身体知覚と<彼>の身体知覚の類比(移し入れ)いう考え方を避けられへんで、そのことがさまざまな難点を呼び寄せてるんよ。ぼくの考えでは、「他我」経験の現象学は情動(感情、エロス)性いうことを起点として行ったら、この難点はおそらく解消するんや。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございます。今回は短かったですね。今回で一旦、『現象学入門』関西弁訳の『デカル的省察』に関わるところは終わりです。次回からまたフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)や『イデーン』に触れた部分に入っていきます。なお今回は精神病について触れたところがありましたが、精神医学には「現象学的精神病理学」という分野があり、日本では木村敏(きむら びん)京都大学医学部名誉教授が第一人者で代表作は『自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学』(ちくま学芸文庫)です。ではまた次回。