<私>のからだ、<他人>のからだ、<他我>Ⅰ(『デカルト的省察』解説その4) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。このブログはフッサール現象学の解説書(竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス)を「関西弁訳」してしまえというものです。今まで、『イデーンⅠ』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のところを経て、今は『デカルト的省察』のところに入っています。初心者向けなので正確さよりもわかりやすさを優先しています。

 

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はじめに現象学は”独りよがりの”前提から出発した。この前提やとつまり、<私>の見る「世界」と誰かの見る「世界」は同じ「世界」に属していることを証明できへん、いうことを意味しとった。このことから、<私>の「世界」と彼の「世界」が同一の「世界」やっちゅう確信が生じるために、ふたつの条件が必要やいうことがわかるやろう。

 

第一に、まず<私>にとって<彼>の実在が確信されること、第二に、<私>にとっての「世界」と<彼>が持っとるはずの「世界」の共通性、同一性の確信や。

 

ここでフッサール先生は「根源的提示」と「間接的提示」いうテクニカルタームを補助線として使うんやけど、これは「原的に与えられる」<知覚>直感(ヒュレー)と、ここから志向的統一(ノエシス)を介して得られるノエマみたいな意味や。

 

まず<身体>は<私>にとって自然(物理的実在)の一部として確証されるんやけど、<身体>は<意識>の自由な志向力に応じて変化する(動く)っちゅう特質を持っとるいう点で、それは他のさまざまなものとは違った実在物として区分されるんよ。つぎにこの区分が確立されたあとでは、<私>は他の<身体>の個的直感を、<私>の<身体>やないもんとしてとらえる。なんでか言うたらそれ(=他の身体)は、<私>の自由な志向力に応じて変化するもんやないからや。ここで「類比」っちゅうことが生じる。

 

<私>はその<私>ならざる<身体>の動きを見て、そこに「わたし自身の『類似者』」(『デカルト的省察』第52節)を構成するんよ。この「類比」は単なる「類比推理なんやない」。いうたら三角定規と三角形のおむすびが似ているというんとはちゃう。それは<私>と<私>の<身体>との間で「根源的創造作用」(<身体>は自由な志向力に応じて変化すること)からの推理や。

 

<私>は<知覚>直感いう原的な提示の働きで、単なる物質的存在、生きものなどの存在を確かめもって確信していくんやけど、<他人>の確信の場合はひとつの特質があるんよ。この場合だけは、自分と自分の<身体>の間に働いている「根源的創造作用」を介することで、”<私>やあらへんけど、<私>と同じようなものがそこにいる”いう確信を与えられる。せやから「他我」(だけ)は、現象学的には「わたしの自我の変様種として現れる」、いうことになるんよ。

 

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ここまで読んでいただきありがとうございました。いつもは「一回読み切り」を心がけているのですが、今回は次回のⅡに続きます。ではまた次回。