<私>のからだ、<他人>のからだ、<他我>Ⅱ(『デカルト的省察』解説その5) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。毎回繰り返しますが、このブログは、『現象学』という「自分はどう感じるか」がら「出発して」それをつきつめていったフッサールという哲学者に始まる哲学の解説書(竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス)を「関西弁訳」して親しみやすくしようとする試みです。前回まではフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)を扱っていましたが、今は同じくフッサールの『デカルト的省察』を扱いますのでよろしくお願いします。m(_ _)m

 

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自-他が同じ「世界」に属しているという確信はどうやって得られるんやろう。

 

 ぼくらは、他我の身体によって他我を意識するんや。他我の身体は、他我自身には、絶対的ここという現れ方で与えられてる。
 せやけど、ぼくは、ぼくの第一次的領域のうちにそこというかたちで現れるものと、他我の第一次領域のうちに彼に対してここというかたちで現れるものとが、同一の物体であるとなんでいえるんやろうか。(『デカルト的省察』第55節)

 

要するに、現象学の”独りよがりの前提”から考える限り、<私>にとっての「そこ」にあるものと<彼>にとっての「ここ」にあるもののあいだには、「超えることのできない深淵」がある、いうんよ。「深淵」が埋められへんかったら、”独りよがりの前提”は、もろに”独りよがりの罠”に落ちこむことになる。フッサール先生の答えはこうや。

 

「他我」は<私>にとってたしかにひとつの<超越>(=ノエマ、間接的提示)として構成されたもんや。せやけどこの「他我」は、たとえば単に自ら動くもの(動くおもちゃ、虫、猫)とは違うプロセスで確信を得とる。いうたらそれは、<私>と身体の間にある「根源的呈示関係」の直接的な類比として得られたもんや。

 

「根源的呈示関係」いうのは、<私>にとってのいろんな<他なるもの>のうち、<身体>だけは<私>の志向力に応じて動くいうふうに、<私>の<身体>として呈示されるいうことや。せやから、<彼>の身体の確信は、<私>が<私>の身体を確証する根源的な呈示作用を直接に移し入れて得られたもんや。ほんで、このことが意味するんは、<私>はこのプロセスにおいて、<私>の身体と<彼>の身体の間にひとつの”共に属すること”を前提として直感していたっちゅうことなんよ。まさしくこの事情から、<私>と<彼>との間にあるひとつのリンゴは、<私>にとって「そこ」にあり、<彼>にとって「ここ」にある「中心的物体として(<私>に)与えられる」。

 

こうして、フッサール先生によれば、ぼくらはまず<超越>としての客観的世界を確信し、そののちこの客観世界の中に存在する<私>と<彼>の心の領域(主観)を確信するんやない。この考えは、<主観-客観>図式で考える伝統的な認識論の基本の発想なんよ。

 

むしろ、「他我」の<身体>-<心>を、自分の<身体>-<心>の確信との直接的類比(=移し入れ)として確信することによって、この身体どうしが共に属することを直感し、そこから、さまざまな物的対象を<彼>と<私>にとって同一のもんとして受けとるんよ。せやから、「他我」の認知こそ客観的世界の実在いう確信の確信の前提であって、けっしてその逆ではあれへん。

 

今まで見てきたことが、フッサール先生の言わはる「他我経験」の形相的還元(本質直感)なんよ、難しゅう言うと。

 

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ここまで読んでいただきありがとうございました。いずれもAmazonで、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は中公文庫から1285円で、『デカルト的省察』は岩波文庫から1015円で出ています。『イデーンⅠ』(「イデーン」で検索してください)もみすず書房から出ていますが、単行本で2冊に別れており、一冊あたりかなり高価(7344円)です。地元の図書館にあるかもしれませんね。