間主観性って・・・?(『デカルト的省察』解説その3) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。毎回繰り返しますが、このブログは、『現象学』という「自分はどう感じるか」がら「出発して」それをつきつめていったフッサールという哲学者に始まる哲学の解説書(竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス)を「関西弁訳」して親しみやすくしようとする試みです。前回まではフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)を扱っていましたが、今は同じくフッサールの『デカルト的省察』を扱いますのでよろしくお願いします。m(_ _)m

 

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素朴な世界像では「他人」とはどないして与えられて(現れて)るんやろうか。まず「他人」とは<私>と同じに心と身体を持った、しかし<私>やない<主観>やと見なされとる。いうたら、他人とは心と身体(自然的物質)をもった存在(単なる生き物)であるだけやなく、<私>と同じような<主観>をもっとるわけや。他人いう存在のこういう性格を現象学では「他我」と呼ぶんよ。

 

もうひとつ重要なんは、この<主観>としての他人と<私>は、趣味や生き方、意見が違ごうてても、唯一同一の世界(空間)の中に同時に共存していると見なされとる。つまり相互主観的な存在としてや。これが、他人の存在というもんに対してぼくらが持っとる自然な像や。

 

最初の問題は、他我のぼくらへの現れというまさしく一つの特殊な問題として、せやからいわゆる感情移入という、他我経験についての先駆けの理論の問題として提出される。(『デカルト的省察』戴43節)

 

フッサール先生の「他我論」は感情移入説なんやけど、他者の了解を、自分の思いを相手に思い入れするいうことで済ませるんは余りに粗雑やないかっちゅう批判がある。ところがフッサール先生の感情移入いう言葉は、いわゆる”思い入れ”っちゅうようなことを意味してるんやない。「自己投入」いう訳語が適切やという説もあるくらいや。

 

人間にとって、対象世界を<私>とは違ったものの世界として区別することは、それほどやっかいな事情やない。ところが、他人を<私>と同じように意志し欲しがる<主観>と見なすことは、<意識>の独りよがりの本性から見てそう簡単やないんよ。せやから一般に「感情移入」と呼ばれている現象を現象学的に解明することが問題や、とフッサール先生は言うたはる。

 

フッサール先生の考え方の順序は次の通りや。

 

まずいま現にある<私>の経験世界を内省してみよか。<私>は他なるもの(<私>ではないもの)として、自然世界と「他我」の経験を持っとることがわかる。この経験の世界を、還元(内省)によって得られた<私>にとってのいうたら「第一次的世界」と呼んでみる。するといわゆる「客観世界」とは、この第一次的世界を基盤として「いくつかの層を重ねることで構成される」ものと考えられるんよ。

 

せやけど「客観的世界」いうことの現象学的な意味の本質はなんやろか。それは、<私>と<他我>が、<主観>の内容の違いをもちながら、それぞれが唯一同一の世界(時間・空間)の内にともに属しているっちゅう間主観性(相互主観性)として理解されるんや。
だけど、ここをもうすこしよう考えよう。<私>と<他人>がともに唯一の世界の中にあるっちゅう確信を持ちあっている関係を、「間主観性」と言うんとは全然違う。この誤解もまんえんしとるけど。

 

せやなくて、「間主観性」とは、”他我が<私>とおんなじ<主観>として存在して、かつこの「他我」も<私>と同じく唯一同一の世界の存在を確信しとるはずや”っちゅう<私>の確信を意味するんよ。つまり間主観性とは、<私>と<他者>の相互関係を言うんやなくて、<私>の確信のある構造をさしているんよ。

 

すると問題はこうなる。まず「他我」存在の妥当(確信)はどないして構成されるか。つぎに、<私>ー「他我」の相互存在の確信の条件はなにかいうことやな。

 

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ふう、今回はすっかり長くなってしまいました。みなさんも読むのに疲れたでしょう。次回はもっと長いので(笑)、前編と後編に分けようかなどと考えています。ここまで読んでいただきありがとうございました。ではまた次回。