ものはもの、心は心(『危機』解説その9) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。くどいようですが大切なことなので、前置きを繰り返しておきます。「もう読んだからいい」という方はすっ飛ばして関西弁の本文をお読みください。

このブログは『現象学』という哲学の解説書を「関西弁訳」したものです。『現象学』とは平たく言えば「自分はどう感じるか」から「出発して」それをつきつめていった哲学です。フッサールという19世紀から20世紀前半にかけて活躍した元数学者によって始められました。日本語訳でも原著(今は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、以下『危機』と略)は難しいので、わかりやすい解説書をさらに関西弁訳して親しみやすくしたつもりです。解説書は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。

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近代の実証主義が行った一種の転倒は、哲学的にもひとつの重要な考え方として現れてるんよ。それはつまり、近代哲学においての心身二元論っちゅう図式や。

よう知られとるように、この図式はデカルトによって定式化されたと言われとる。この図式は単に世界を「自然と心の世界という、いうたら二つの世界に分裂」(『危機』第10節)させただけやない。それはここからさらに、人間は心(心理)と物質の合成物として存在するいう考え方をもたらしたんよ。

この心身二元論が成立した理由は以下の通りや。近代以前の世界像では、自然とは森羅万象の世界であり、要はすでに霊的なものを内に含んだアニミズム的世界として存在しとった。せやけど自然科学ガ”自然”を均質で計量可能なもの、物理的な因果関係の網の目であると見なしたとたん、そこから霊的なもの一切が追い払われたんよ。こうして霊的なものは人間の<意識>の座としての「心」に局在化させられて、世界は心的世界と物理的世界とに明瞭に分けられるに至ったんや。

ここでも重要なことが起こるんよ。自然科学は物理的世界(自然)の因果系列を客観として追求したんやけど、この発想はそのうち心的世界にまで移されることになるんや。つまり「心的なものの自然化」(『危機』第11節)っちゅうことが生じるんよ。フッサール先生が言わはるにはこの心の自然化は、「ジョン・ロックを経て、近代全体に伝えられ、今日にまでおよんでいる」(『危機』第11節)

こういう”心身二元論”が孕んでいる問題は大きいんや。

まずそれは、人間の心を自然と同じく因果系列の秩序としてとらえようとするんよ。ほんで。すでに因果系列としてとらえられた自然(物理的世界)の秩序と、心の秩序の関係を、また因果関係としてとらえようとするわけ。じつはこの方法のうちに近代的な心身論の最大の矛盾があるんやけど、とにかくそんな発想の中で、人間と世界との「関係」の実証的な学は基礎をすえられるんよ。フッサール先生の言わはるには、この近代的な心身二元論こそが「理性問題(=精神の問題)を把握することを不可能にした根拠」なんや。

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ここまで読んでいただきありがとうございます。今回は新しいテクニカルタームもなく、「一回読み切り」になったかと思います。けれど、以前のほうの回から順に読んでいただくと、「連載小説を読むような」面白さがある・・・かもしれません。(^^;