学問が危ない!(『危機』解説その8) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。くどいようですが大切なことなので、前置きを繰り返しておきます。「もう読んだからいい」という方はすっ飛ばして関西弁の本文をお読みください。

このブログは『現象学』という哲学の解説書を「関西弁訳」したものです。『現象学』とは平たく言えば「自分はどう感じるか」から「出発して」それをつきつめていった哲学です。フッサールという19世紀から20世紀前半にかけて活躍した元数学者によって始められました。日本語訳でも原著(今は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、以下『危機』と略)は難しいので、わかりやすい解説書をさらに関西弁訳して親しみやすくしたつもりです。解説書は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。

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人文科学でさまざまな逆転が現れたんよ。たとえば、歴史の必然が個人の生の意味を規定し、国家的や社会的な価値が人間の価値を規定し、心理学的な決定論が人間のタイプを規定し、倫理的や道徳的な価値が人間の存在の意味を規定するいう具合に、世界観やイデオロギーの形でや。それだけやあらへん。19世紀後半から20世紀にかけて人文科学のいろんな学問は、諸学説の対立を調停する力を全くなくしてしもうて、相対主義や懐疑主義や不可知論が蔓延するままになったんよ。

フッサール先生が言わはるには、こういう事態を克服するにはふたつの課題をクリアする必要があるんよ。

ひとつは、なんで近代の理性がこんな倒錯の道をたどったのかの必然を解明して、その動機と意味をはっきりつかむことや。もうひとつは、人間の理性がどんな対象に使用されたらその本性に敵うんやろうっちゅう問いを立てるこっちゃな。

近代を通じて人間の理性の能力が向けられる課題は、世界の事柄の客観的な真理を追求することやった。せやけどこの課題が挫折して、理性(ロゴス)への大きな絶望が現れたんよ。そのことではじめて理性そのものが疑われだしたんやけど、じつは理性それ自体は虚妄なもんでも無用なもんでもあれへん。理性が向けられる対象が誤ってたにすぎへんのよ。なんで近代の理性の使い方が論理に反しているんか、ほんなら理性はどんな新しい問題に向けかえられなあかんかを明らかに示すんは現象学的な視線だけやとフッサール先生は説かはるんよ。

この「新しい問題」が何かについては後で詳しく見るとして、ここでさっき言うたクリアすべき「ふたつの課題」についてその”答え”を要約しとこか。

近代的世界像での生活世界と理念世界の関係の逆転の根本原因は、近代的理性が世界を把握しようとする試みが、まず<主観ー客観>図式を前提として出発した点にあるんよ。

近代哲学では、デカルト、ロック、ヒューム、バークレーのイギリス経験論、スピノザ、ライプニッツ、カントなんかの系譜は、おしなべて<主観ー客観>の「一致」が可能かどうかを最大の難問として考えつづけてきたんや。せやけど、近代の自然科学はこの問題に注意を払わへんかった。それは科学者たちが仮設と実験による確かめという固有の方法がこの問題を実践的にクリアするはずと考えとったからや。近代自然科学のめざましい成果は、彼らをして、どんな客観的認識も<主観>でしかないっちゅう逆説の前にとどまらせへんかった。せやからこの「主観性の謎」の意味は放っとかれたまま現在に至ったんよ。

ぼくらはもう現象学的<還元>の基本的な意味合いを見てきたよって、ここから先の答えは明らかやろう。せやから、実証主義が思い描いた世界客観の真とは、現象学的には、けっして”絶対的なものとして定立しえない”ひとつの<超越>、いうたら思いこみにすぎへんのよ。そしてこの<超越>としての客観は、その確かめの根拠をただ生活の中での人間の<意識>のありようにだけ持っとるんや。つまり、近代科学のどんな”客観”理念も、その根拠をただ生活世界の<内在>のうちにだけ持つんよ。

せやから世界客観の真が生活世界を規定するっちゅう考えは、本来的な関係の全くの逆転なんや。

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。m(_ _)m このブログは「1回読み切り」を心がけているのですが、今回は今までの回を読んでいないと見たこともない言葉が2つでてきました。そこでちょっと解説しておきます。まず<還元>とは「明らかに思えることでもカッコに入れてみる」ことです。<内在>とは、本当かそうかはわからないけど実際に感じたこと、みたいな意味です。

ではまた次回。