発見しかつ隠す天才ガリレイ(『危機』解説その7) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。このブログは『現象学』という哲学の解説書を「関西弁訳」したものです。『現象学』とは平たく言えば「自分はどう感じるか」から「出発して」それをつきつめていった哲学です。フッサールという19世紀から20世紀前半にかけて活躍した元数学者によって始められました。日本語訳でも原著(今は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、以下『危機』と略)は難しいので、わかりやすい解説書をさらに関西弁訳して親しみやすくしたつもりです。解説書は竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)です。

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フッサール先生の次のことばはよく知られとる。

物理学の、せやからまた物理学的自然の発見者ガリレイ(略)は、発見する天才やと同時に隠蔽する天才でもあるんよ。彼は数学的自然、また方法の理念発見し、(略)それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもん、いうたら「真の」世界の、「経験に先立つ形式」を発見し、また「精緻な法則性の法則」ーーーなんのことや言うたら理念化された「自然」のあらゆる出来事が精緻な法則に従わんといかんっちゅうことやねんけどーーーを発見した。これらはみんな、発見であると同時に隠蔽やのに、ぼくらはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受け取っとる。(『危機』第九節 g)

ガリレイは近代科学の礎石になるさまざまな理念を発見したけど、それは同時にある重要なことの「隠蔽」でもあったんよ。ガリレイはいったい何を「隠蔽」したんやろうか。

まず、近代実証主義が覆い隠したんは、「定式化」された抽象の世界と具体的な生活世界の関係の逆転いうことやな。

もともと測定術がより正確な基準、より高度な技術を追求したんは、つねに生活上の必要(~のために)いう目的からやった。本来生活の必要こそが目的で、測定術はその手段やったんよ。せやけどさっき見たようにこのプロセスは、法則が表現する因果の世界こそ確実で客観的なもんで、日常の経験は相対的であいまいなもんや、とする考えを産み落としたんや。

このことによって、日常の相対性の世界はものごとの偶然的な現れにすぎへんで、客観法則の世界こそがこの相対的な現れの世界を根本的に基礎づけとる、と一般的に見なされるようになったんよ。このとき、いうたら手段と目的がひっくり返っとる。はじめ生活の便宜として現れた科学が、やがてある因果の体系を無限に押し拡げていくことを自己目的と考え、そこでは生活世界は、この目的のためにさまざまに検証されなあかん対象(手段)にすぎへんて見なされるからや。

せやけど、そんでも実証主義の客観理念が”自然”を対象としとる間は、まだ矛盾はそんなに大きいもんとして現れんかったんよ。近代合理主義による”自然”の対象化、客観化は、理性を人間の自由にできるものと考え、それを広く利用しようとする新しい社会の必要にかなうもんにすぎへんかったからや。せやけど近代の「自然科学」がその理念を人文科学にまで及ぼしたとき、この生活世界と理念世界の関係の逆転っちゅう事態がそれまでほとんど考察されへんかったよって、いろんな矛盾が露呈して、ついに十九世紀の後半になって「学」という理念そのもんが危機に陥るような状態になったんよ。

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このブログは連続シリーズなのです(途中1年間の中断あり)が、「1回読み切り」を心がけています。ここまで読んでいただきありがとうございました。m(_ _)m ではまた次回。