さらに精神医学でも使われている「ノエシス―ノエマ」について(イデーンⅠ解説その10) | takehisaのブログ

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 みなさん、こんにちは。おかげさまで、「イデーンⅠ」解説(関西弁)も10回目になりました。みなさんのおかげです。
 前回の拙文に、7名もの方が「いいね!」をしてくださいました。ありがとうございましたm(_ _)m 常連の方が「いいね!」をしてくださったのも、もちろんうれしかったのですが、ご新規の方が「いいね!」をしてくださったのが、「あ、自分の書いたことが伝わってるんだ」と、とてもうれしかったです。それでは今日も、フッサール現象学の経典『イデーンⅠ』の解説を関西弁で語っていきましょう。

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 さあ今週も、精神医学でも使われている<ノエシス―ノエマ>について解説していこか。「現象学的精神医学」に最初にこの<ノエシス―ノエマ>の考え方を持ち込まはったんは、京都大学医学部名誉教授の木村敏(きむら びん)先生やったと思う。その方面に興味のある人は、今日の記事をしっかり読んどいてや。

 前回のおさらいやけど、どんなに単純に見える意識のありようも、すでに多重化されとるんよ。どういうことか言うたら、ひとは自分が何をしようとしとるんかを暗黙のうちにわかってへんかったら、その行為をつづけることができへん。おんなじように、何を考えていたかをわかってへんかったら、考えつづけることはできへんのや。人間の<意識>はそういう意味でつねに「何かに向かう統一」、むずかしゅう言うたら「志向的統一」や。このことを難しく言うと、<意識>の「ノエシス的契機」いうんよ。

 この「ノエシス的契機」の「何かに向かう相関者」、むずかしゅう言うたら「志向的相関者」のことを「ノエマ」いうんよ。

 言うたら、赤いとか丸いとかいう<知覚>素材を、<意識>の「何かに向かう契機」が「ひとつのリンゴがある」ちゅう対象物をもたらす。この対象物は現象学のことばでいうと、<超越的>対象物や。このとき、「ひとつのリンゴ」ちゅう実在物の「確信の成立」(=妥当)のことが、「ノエマ的な内実」または「ノエマ」と呼ばれるんよ。

 ここ、注意や。「ノエマ」は、重なった意味の系列として、はじめて経験の実在性を構成するっちゅう点や。つぎのように考えてみたらええ。

 ぼくの目の前に「ひとつの赤いリンゴ」があるとしようやないか。せやけどぼくは、「何かに向かう契機」(ノエシス的契機)によって、そのリンゴがただのリンゴやないと見るんや。たとえば、王様に出す今年一番のよいリンゴやとか、病人に与えるべき貴重なリンゴやとか。ほんだら、このリンゴはたいへん価値のあるもんやな。そしたら、このリンゴを落として傷もんにすることは、「重大な過失」っちゅうことになるわな。そんなわけで、人間の「経験」には、単にものごとがあるっちゅうことだけやなくて、つねに”意味”がつきまとうんよ。そんなわけで、ひとつのりんごが”貴重で”あって、それを傷ものにすることが、とりかえしのつかないことやっちゅうことがあるわな。こないな、”意味を与えられた”事象の系列が、「ノエマ的相関者」の系列っちゅうことになるんよ。

 荒っぽう言うたけど、<ノエシス―ノエマ>構造の図式が重要なんは、ものごとを感性的に受け取って、より高次なもん考えていくときのキーポイントがあるからなんや。フッサール先生は、こう書いてはる。

 「ぼくらは、今度は、これからすぐ続くいろんな考察で、「高次の」意識のエリアのいろんな構造を、考えて行ってみようと思う。このいろんな構造では、ある具体的な体験の統一のなかで、何重にも、いろんなノエシスが、お互いに積み重ねられていて、せやから、「ノエマ的相関者」もおんなじように、裏打ちされたもんとなってるんよ。なんでかいうたら、どんな「ノエシス的契機」も、それに特有にくっついている「ノエマ的契機」がなかったら、ありえへん。せやから、これがどんなときも保証される本質的な法則にほかならないからや。」(第93節 高次の意識のエリアのノエシス・ノエマ的構造への移り行き)

 この問題は、フッサール先生の『経験と判断』に詳しゅう書いとる。

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 みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m お疲れになったでしょうから、コーヒーブレイクでもどうぞ。いやあ、しかし、精神科のお医者さんって、患者の話だけ聞いて、薬を出したりしているのかと思ったら、こんな難しいことを考えておられるのですね。もっとも、すべてのお医者さんがそういうわけではないでしょうが・・・。
それでは、また来週~(^_^)/~