精神医学でも使われている「ノエシス―ノエマ」って何?(イデーンⅠ解説その9) | takehisaのブログ

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 さあ、今週もやってまいりました。いつもの元本、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)の関西弁訳。今週も途中で、コーヒーブレイクでも入れながら読んでくださったらうれしいです。今日あつかう、「ノエシス―ノエマ」っていう考え方は、精神医学でも使われているので、そっち方面に興味のある方は、ぜひお読みください。この考え方を、最初に精神医学に持ちこんだのは、木村敏(きむら びん)という京都大学医学部名誉教授の先生です。
 それにしても、このシリーズを始めた当初は「いいね!」をしてくださる方がだれもおられないという日が続き、(ほんまに大丈夫かいな)と不安いっぱいでしたが、今はアップをしてすぐに「いいね!」をしてくださる方々がおられて、改めてお礼を申し上げさせていただきます。本当にありがとうございますm(_ _)m それでは、今日もはじめていきましょう。

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 いきなりやけど、『コロコロ変わっているのに、何で同じだといえるの?(イデーンⅠ解説その4) 』http://ameblo.jp/takehisa1/entry-12027513960.html で、何やら難しげな<コギタチオ―コギターツム>ちゅう考え方を紹介した。めんどくさい人は読まんでもええ。今から解説するさかい。

 ぼくらが、机のまわりをぐるぐる歩き回っているとしようやないか。すると、机のさまざまな有様がぼくらの意識に連続して与えられるわな。これが<コギタチオ>や。これによって、ぼくらが、ひとつの机を見るという経験が生まれやろ。これが<コギターツム>や。むずかしゅう言うたら<コギタチオ―コギターツム>は、<意識作用―意識対象>ちゅうことになるな。

 荒っぽくいうたら、この<コギタチオ―コギターツム>を現象学的に整理し直したんが、<ノエシス―ノエマ>なんよ。<ノエシス―ノエマ>は、精神医学、とくに『現象学的精神医学』に出てくるから、そういうんに興味のあるひとは、今日の記事を読んどいて損はないで。

 フッサール先生は、もうそれ以上反省によってさかのぼれへん、言うたら、それ以上疑えへん意識のありのままの姿を「いろんな意識の体験の流れ」と呼ばはった。そして、ここからまず最初に”構成”される世界っちゅうことで、”最も素朴な「思い込み」を含んだ”具体的な経験の世界、つまり、ありありとした現実の世界が現れると考えはった。

 要するに、現象学的な心の成り立ちでは、難しい言い方するけど、「感覚的ヒュレー(いうたら素材)と、何かに向かうモルフェ―(いうたら形式)ちゅう見のがせへん二重性と統一性が、支配的な役割を演じとる」(『イデーンⅠ』第84節))てフッサール先生は言うたはる。

 フッサール先生は、こうも書いてはる。[この「素材」、いうたら、<意識>に最初に与えられているものに「形式を与えて、これを、何かに向かう体験にまでつくり上げ」るやり方、そこに<意識>っちゅうもんの特質があるんや。せやけど、<意識>の特質を、「意識の契機」とか「意識性」いうような手垢のついた言葉で呼ぶのはまずいんよ。現象学的には、この<意識>の特質は、極めてはっきりした固有の意味を持っとるからや。「それで、ぼくらは、ノエシス的契機、もっと簡単に言うと、ノエシスちゅうテクニカルタームを導入するわけよ」](第85節)

 ここでやけど、フッサール先生のこの素材(ヒュレー)と形式(モルフェ―)の図式は、ぱっと見カントの、「感性」とそれに統一を与える「悟性」(判断の能力)に似とる。せやけどそフッサール先生の考えは、「何かで構成されているという考え」とは、まったく違うんや。

 カントの考えやったら、感覚器官を通して入ってきた感性のいろんな知覚は、ものごとの形式的な整理表に照らし合わされて、これはひとつのリンゴだとか、大きい机だとかといった具合に、判断へともたらされるんや。カントによれば、この整理表が、「悟性のカテゴリー」で、それは、人間の経験に先立った能力やいうことが重要や。

 これに対して、フッサール先生の「ノエシス」いうんは、そんな整理表やあらへん。フッサール先生が言いたいんはただ、<意識>は、「それ自身からして本来、『おのれがそれについての意識であるようなあるもん』を指示する」(第85節)もんや、ちゅうこっちゃ。ここ、注意や。これは単に、ぼくらはなにものかを意識している自分を意識している、その自分をまた意識している・・・・・・ちゅう「上から目線」の能力の無限さを言うてるわけやない。それより、いうたら、人間の<意識>はいつでもすでに、おのれを多重化する能力そのものや、いうこっちゃな。

 人間のどんなに単純にみえる意識のありようも、いつでもすでに多重化されとる。たとえば、ひとは自分が何をしようとしてるんかを暗黙のうちにわかってへんかったら、その行いを続けることができへん。おんなじように何を考えていたかをわかってへんかったら、考え続けることはできへんのよ。人間の<意識>は、そういう意味でいつも絶えざる「何かに向かう統一」や。<意識>の「ノエシス的契機」いうんはそういう意味よ。

 もしこのことを認めるんやったら、一見奇妙に思える、「最初の最初に」与えられる「素材」ちゅう考え方も、わけのわからんもんやなくなるな。なんでかいうたら、すくなくとも<知覚>は、<意識>の、この「何かに向かう能力」にかかわりなく、言うたら<意識>ちゅう「絶対的な存在の王国」(第76節)の中で、ほとんど唯一の<異人>として立ち現れてくるもんやからや。ここで<意識>いうたけど、それは、意識的か無意識的かには関係あらへん。

 ちょっと厳密に考えてみよか。たとえば想像、記憶を思い出すこと、知覚を再び思いうかべること、能産的な(自分で作り出す)言葉や理念性の意味を思いうかべるといったもんは、必ず<意識>の「何かに向かう」自己多重化の能力そのもんによって生み出されてるんがわかるわな。すべて、「上から目線」の複合や。せやけど、連想によるイメージや意味を思いうかべることだけは、特殊な意味をもつんよ。

 <知覚>だけが「ヒュレー的に与えられたもの」、「感覚的な素材」と呼ばれる権利を持つんは、このためなんや。こう考えたら、カントとフッサール先生の考え方がえらい違うことがわかるやろう。カントの場合、その世界の構成は、いろんな部分を整理表によって組み立てる、組み立て工場みたいなもんや。せやけど、フッサール先生の構成は、言うたら、イメージを多重化するシステムみたいなもんを意味してるからよ。

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 みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございますm(_ _)m カント先生に、「先生」をつけるのを忘れ、引っこみがつかなくなり、ずっと「呼び捨て」で通しました。カント先生、すみません(笑) ところで研究で、ドイツやイギリスに留学しようと思っておられる方は、文系、理系、専門を問わず、カント先生の本は常識として読んでいったほうがいいそうです。せめて『純粋理性批判』くらいは。それではまた来週~(^_^)/~