第一回諌議書配布時の御宗門の御対応 | 元顕正会総支隊長補きんぱちのブログ

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元顕正会員総支隊長補。立正安国論、三世の生命、臨終の相に感激し、平成5年より約12年間活動。「一生成仏」「広宣流布」「国立戒壇建立」を目指し活動に没頭。偽本尊を始めとする教義逸脱を知るに至り10年間な空白を経て2015年日蓮正宗へ。大石寺塔中「百貫坊」所属。世話人

「 時局について」

総監 藤本日潤

 最近、顕正会と称する団体が「日蓮正宗」を名乗り、あるいは「冨士大石寺」という名称をかぶせて名乗り、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」というタイトルを掲げた小冊子を作って、主要な全国新聞に一頁大の広告を出して宣伝し、全国的に大量配布を行っておるようでありまして、これについて一部の人から問い合わせもありますので、この機会に、この顕正会なる団体について、簡略に御説明申し上げます。お聞き取りの上、所属信徒の方に誤りない対応をお願いいたしたいと思います。


 顕正会という団体は、元妙信講と称する宗門の法華講支部の一つでありましたが、既に解散処分に付され、そこに所属する信徒のうち主要な三十数名は信徒除名となり、一般講員も、宗門の指示に従って指定した寺院に申し出て所属替えをした者以外はすべて信徒の資格を失ったのであり、その後、妙信講という名称を顕正会と改めておりますが、そのようなわけでありますから、顕正会あるいは顕正会員と名乗る者に一人として日蓮正宗と関係ある者
はいないということを、まず申し上げておきます。
 

 元妙信講は、その中心者である浅井甚兵衛、浅井昭衛親子の増上慢、独善性、権力志向性等によって、常に周辺とトラブルを起こし、所属寺院を転々として、最後、墨田区の妙縁寺に所属しておりましたが、浅井親子は、右翼的、国粋主義的な思想傾向が強く、天皇制の復活を信じて、かねてから「大聖人の御遺命の戒壇は、天母山(あんもやま)に建てる国立戒壇でなければならない」と、このように主張して、当時、完成間近に迫っていた正本堂の意義についてクレームをつけ、宗門の公式決定である「国立戒壇の名称を使用しない」という定めを犯して、盛んに宗門や創価学会を非難・攻撃し、「流血の惨も辞さず」という脅迫文まで送りつけて、日達上人御自ら浅井親子を説得あそばされるなど、大変な御苦心の結果、ようやく正本堂の落慶法要を無事済ませることができたという有り様でありました。

 しかし、その後も執拗に国立戒壇を主張して宗門、学会を攻撃して、ついには文書を街頭配布したり、デモ行進を敢行するなど、ますますエスカレートして留まるところを知らないため、やむをえず、宗門は、昭和四十九年八月、講中解散処分に付したのであります。
しかし、浅井らはいよいよ過激さを増して、宣伝カーで学会本部を襲撃し、乱闘事件を起こすなど、エスカレートする一方であるため、万やむなく、浅井規子ら中心者三十三名を信徒除名処分に付しました。

 そののち、浅井らは妙縁寺住職等、二、三の僧侶を巻き込んだ形で裁判を起こし、法廷闘争に持ち込んで、裁判は三年にわたって攻防が続きましたが、裁判長の職権による和解勧告により、昭和五十二年四月、和解が成立して、裁判は終結しました。
 
 この和解の趣旨は、仲直りしたとか妥協したとかいうことではけっしてなく、事件の本質が宗教教義の解釈にわたる事柄であって、裁判所の判断にはなじまないということであり、したがって、両者の主張の当否は、今後の双方の宗教活動を通しておのずから明らかにされるべき性質のものであることを前提として、法廷の場における争いをやめ、訴えを取り下げるという趣旨でありました。その結果、妙縁寺の建物はすべて宗門に明け渡され、また、妙信講や浅井らに対しての処分効果もすべて確定した形で終了したということであります。したがって、元妙信講が、以後「日建正宗」の名称を僭称(せんしょう:かってに自分の身分を越えた上の称号を名のること、また、その称号【出典:精選版 日本国語大辞典の解説】 )して妄動したり、寺院を建てたりしたとしても、日蓮正宗とは全く関係のないことであるから、一切これらに紛動されることがないようにという通達を宗内一般へ出してピリオドを打ち、今日に及んでいるという次第であります。

 故に、初めにも申し上げましたとおり、顕正会という名称の上に、いかに「日蓮正宗」と名乗ろうが、さらに「冨士大石寺」という名をかぶせようが、それらは全くの僭称であり、勝手に名乗っているに過ぎないものであって、日蓮正宗や大石寺とは全く無関係でありますから、これらに紛動され、あるいは惑わされたりすることのないように、よく所属の講中信徒の方々に説明・徹底せられますよう、よろしくお願いいたします。
この「日蓮正宗」という名称につきましても、その裁判のなかで、当方から『日蓮正系の名祢は使わないように』という訴えもしていたのでありますが、これが和解という形で取り下げられることになったのであります。したがって、向こうはその以後も「日蓮正宗、日蓮正宗」と名乗っており、最近また、それにさらに「冨士大石寺」という名前を付け加えてやっておるということでありますが、一度裁判でそういう結果となり、和解という形でその名称使用の禁止の訴えも取り下げざるをえなかったという状況でございますので、その点お含みの上、いくら彼等が等がそういう名称を使おうと僭称に過ぎない、勝手に名乗っているに過ぎないということであります。このあたりをよく御信徒の方々に説明して、「正宗」という名前、また「大石寺」という名前、これを使っているために非常に惑わされておるという状況が一部にあるようでございますので、この点についてよろしく対応していただきたいと、このように皆さん方にお願いいたす次第であります。


転載 以上


諌議書のときに、このようなご対応がご宗門でなされたことを知り、恐縮の気持ちしかありません。

この一回目のとき、大石寺まで配布にいきました。墓苑のそばに車を止め、正本堂を見下ろすような感じでしたが、地面に座り勤行をし、浅井せんせーの石畳の上で勤行されるってこんな感じかと感激しながら班長と2人罰当たりな勤行を敢行。

その後配布を開始し、真面目な何も知らない講員さんが受け取ってくれ、受け取ってくれたことにたいへんな慶を感じてしまったことを覚えています。どんだけ罰当たりな行動だったのか。。と身震いします。

そのような中、親切なある法華講員さんが声をかけてくれ、わたしたちの身を案じてくれ

せっかくお山に来たのだから本家本元の話しを聞いていきなさい

と、坊にわさわざお通しいただき、ご僧侶おふたりも来て頂き、古い富士などをお持ちになり、懇切丁寧にお話をしてくださいました。その後、夕の勤行も一緒にさせて頂き、

はやくご宗門が正義に目覚めますように

と、とんでもない罰当たりな御祈念をしてしまったこと、恐ろしい限りです。

ご住職がご持参された富士の二号を頂くことができて、功徳と喜ぶわたし。
当時の隊長であったY島さんに報告すると、一緒に勤行はやばかったね。。と。。


その後、その法華講員さんには私が顕正会を離れるまでの10年間くらい顕正新聞を送ってしまってました。

そして時が流れ、晴れてこちらの信徒にならせて頂いてすぐ、その講員さんにご連絡させて頂き、非礼をお詫びし、あの時御対応頂いた感謝をお伝えしました。そのときに、その時のご住職が現在もいらっしゃるので、挨拶にいこうと、お通し頂きました。なんとお隣の寂日坊様でした。

ご住職に非礼をお詫びし、生意気すぎる若造に懇切丁寧に御対応いただいたことへの感謝と、これからの決意を伝えることが叶いました。

そのときに、遠回りしたけれど、仏縁があるから正法に出逢うことができた。これから精進していけば良いですよ。
と、ありがたいお言葉を賜ることができました。

顕正会員さん
正しい信心をし、成仏を遂げることが信心の目的ですよね。

1日もはやく目覚められることを祈っております。