浅井会長 | 元顕正会総支隊長補きんぱちのブログ

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元顕正会員総支隊長補。立正安国論、三世の生命、臨終の相に感激し、平成5年より約12年間活動。「一生成仏」「広宣流布」「国立戒壇建立」を目指し活動に没頭。偽本尊を始めとする教義逸脱を知るに至り10年間な空白を経て2015年日蓮正宗へ。大石寺塔中「百貫坊」所属。世話人

平成18年11月1日発行 高照山 第227号
妙光寺支部第4地区 竹尾 雄治

顕正会の浅井昭衛のこと

  顕正会の浅井昭衛とは、私は同い年で、彼と知り合ったのは、彼が昭和23年の夏に、総本山で法燈相続が目的の夏期修養会に、兄弟で参加して来たときです。彼は当時17歳で、イガグリ頭で、「お寺と言われるとゾッとした」と告白していましたから、それまで不信心であったようです。
  その夏期修養会に参加した東京の青年たちが、総本山の修養会だけでは、もったいない。末寺にお願いして教学の御講義を頂こうと、その当時、常在寺におられた日達上人からもお説法を頂き、妙光寺の円妙院日彰上人からも『五人所破抄』と『六巻抄』の御講義を頂きました。その席に彼も池袋の法道会の信徒として来ていました。妙光寺の信徒としては、私の兄弟のほかに、『六巻抄』の御講義のころになりますと、伊藤康二さんが加わり、そうして後に御書の素読会が大東院日明贈上人の御指導で、少人数で行われましたが、この席には金子浩一さんも参加されました。
  浅井昭衛の家は、小石川音羽町の講談社の前で印刷屋をやっており、そこを訪ねて親しく話をしたこともあります。彼の父の甚兵衛は、もと妙光寺の講中の一つであった目白講(昭和9年7月組織認可、当時の講頭は鈴木作次郎)に所属していまして、そのころから講頭を差し置いて出しゃばるような増上慢であったらしく、鈴木作次郎さんも苦々しく思っておられました。 甚兵衛は、昭和11年11月には、大慈院日仁贈上人が豊島区東長崎に設立された豊島教会所(後に妙光院、妙国寺と改称)の総代となっておりました。昭和17年3月当時、品川妙光寺の総代を勤め、同年、妙信講を設立し、日恭上人の御認承を得ております。
  昭和17年8月~18年1月、また同20年ごろ、法道会(昭和35年4月に法道院と改称)御主管の早瀬道応師(観妙院日慈上人)が、不在または病気がちの妙光寺御住職に代わり、妙光寺に来られて、お講や法要のとき御導師を勤められ、お説法をされておりました。その気迫のこもった御説法を拝聴して大いに心酔して、かねてから妙光寺の寺風を生ぬるいと感じていた血の気の多い浅井甚兵衛等々は、妙光寺檀徒のまま、法道会所属の信徒に変わったのです(故妙光寺総代根岸朝太郎氏談)。
池袋の法道会は、妙光寺檀徒で妙光院所属の信徒でもあった内山ワカさんの紹介で、同じく妙光寺檀徒で池袋駅前において下駄商を営んでいた加藤誠吾(丑郎)さんの所有地が提供されて、現在法道院のある場所に昭和22年4月に道場が復興したのです。
  その後、昭和31年6月に、浅井甚兵衛は、法道会御主管の要請により、妙信講を発展的に解消し、日淳上人より、法華講法道会支部講頭、法道会檀徒総代の認証を受けました。
  私は小さいころから妙光寺に参詣し、また法道会にも吾妻橋にあったころからお参りしておりました。昭和20年3月には吾妻橋の法道会が空襲で焼失して、観妙院さんは常泉寺に避難しておられましたので、お見舞いに行き、お話をさせていただいたこともあります(法道院百年史324㌻)。しかし、昭和23年以前には浅井昭衛と会った記憶はありません。
  どうして彼が道を誤ってしまったのか。昭和32年に法道院の御主管、観妙院日慈上人と些細なことで袂を分かつことになったわけですけれども、彼は性格的に強くリーダーシップを取る人に憧れる人間なのです。それをひっくり返すと、自分自身も売り出したい。俺は偉いんだという気持ちになり、結局、御僧侶に対しても、一時は日慈上人に、父の甚兵衛共々、惚れ込んでしまった。信心のうえでの師匠というよりは、男が男に惚れ込んでしまったというような状態でした。ところが、それが自分の意に沿わなくなると、その当時、彼は私に「なんだ。そうだったのか。後ろ手でソロバンをはじいている坊主だったのか。こんなのに入れ込んだ自分自身がいまいましい」と、そういうような言い方をしておりました。
  ところで、御僧侶の御指導から離れた彼のことを私の親父が心配をいたしまして、「お坊さんの指導を受けないで、自分だけでやっていったら、ろくな者にはならない。どうしても御僧侶に教えを受けなければ」と、そのころ富士宮の要行寺におられた八木直道御尊師が、私の父と親しかったので、この方に頼んで教えを受けろということになりまして、私と彼と二人で要行寺へ行って、一晩御厄介になって、いろいろ話をしたのです。八木直道御尊師は、わりと剛直な方ですから、そういった面で彼も自分の意に沿うと思ったのでしょう。一時は直道尊師を敬って従っていたようです。ところが、その後、浅井昭衛は、在家の分を弁えず、独断専行の増上慢の行為が益々露わになってまいりましたので、八木直道御尊師は顕正会と袂を分かち、昭和60年12月8日に、日蓮正宗の僧籍に復帰され、養子の八木信瑩師(現総監常要院日照尊能化)が住職をして居られた妙泉坊に住まわれまして、平成7年9月10日、98歳の高齢をもって寂されました。
  御僧侶と浅井昭衛の関係は、譬えば、医者と患者の仲で、自分が思っている病状を医者が言ってくれないと、「あいつはヘボだ」というようなことを言い出す。そういうような関係で、どこのお坊さんとも、うまくいかず、結局分かれることになってしまったのです。
 彼は「妙信講(昭和57年10月、顕正会と改称)を法道院の住職は自分の面子にかけても潰そうとした」(顕正会の歴史と使命31㌻)と言っていますが、事実は全く違う。浅井昭衛を一番可愛がり、その行く末を一番心配しておられたのが、当時の法道院御主管であります。そうして、昭和32年8月に、松本諦雄(日仁)師が住職をしていた吾妻橋の妙縁寺に妙信講を所属させていただくことになったのです。この間の事情については、「(法道院の)主管は、浅井父子にはまったくにえ湯をのまされましたが、一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いしたのです」(『元妙信講問題について』8㌻下段)というのが真相であります。当時宗務院教学部長でもあられた早瀬御主管の口添えがなければ、何で日淳上人が、妙信講を認証あそばされたでしょうか。
  浅井昭衛は、たしかに弁も立ち、わりかた勉強もしたのですけれども、それほど深い教学があるかどうか、私はちょっと疑問に思っています。昭和34~5年ごろまでは付き合っていましたが、それ以後は全く会っておりません。私の母が昭和57年5月に亡くなった時に聞きつけて、弔問に来てくれましたが、私は居りませんでしたので会っていません。彼は私の親父とは時々電話をしていたようです。
  内心は「あいつも可哀そうだなぁ」という気はあったのですが、昔仲間の法道院の小牧の祥ちゃんと会ったときに「あいつ何とかならないか」と言ったら、「雄ちゃん、あいつは、もうあの当時の昭衛じゃないよ。ちやほやされて、すっかり変わっちゃったから、あいつはもう駄目だよ」と、すっかり匙を投げていました。
  結局、彼は独りよがりの信心と言いますか、早く言えば増上慢、「未だ得ざるを得たりと謂う」(法華経方便品)というようなことで、一番の根本は、信心を通しての御僧侶からの御指導の受け方というものが、身に付いていなかったということだろうと思います。
  元妙信講の加藤誠吾さんも、昭和32年に法道院から妙縁寺に移籍し、同33年1月15日には妙信講支部副講頭として、日蓮正宗管長から認証を受けておりますが、同氏は、間もなく妙信講と決別し、妙光寺の法華講中に復帰されました。浅井親子の増上慢ぶりに愛想が尽きたからです。そのほかにも彼に付いて法道院を飛びだした仲間のなかに、その後、浅井昭衛と袂を分かって、顕正会を止めた人たちが多くおられると思います。
  浅井昭衛は、もう75歳にもなり、これまで予言者ぶった大言壮語をしてきて、それが、ことごとく外れているのですから、もうこれ以上、赤恥を掻かないようにしてもらいたいと思います。(平成18年9月10日 妙光寺支部壮年部座談会にて)




所詮一信徒の身

勝手に勤行を改変し
ご観念文を変更
大聖人様が、ご両親に送られた戒名を否定
大聖人がなされていたお塔婆供養も、なんの文証も示さず仏法の本義からいらないと言って否定
あたらない予言
信心の耳で聞きたて奉った、亡国から逆算したはずの誓願、目標の延長につぐ延長
それに対して何の言及もない

責任ある立場としてありえない

血脈の否定

そして、
偽本尊の作成




池田さんと並ぶ仏法破壊の魔。

これが浅井さんの正体。


ただただ真面目で健気な会員さん
早く目を覚ましてくださいね