この記事は、平成19年に、連載していた『フジサンケイ・ビジネスアイ』の「エコマインド・アイ」に寄稿したものです。



 先日友人のホームパーティーに参加したとき、友人からこんな話を聞いて考えさせられた。二年ほど前のことらしいが、飼っていた軍鶏を鍋にして食べたのだという。

 雌だということで卵を期待して貰ってきたら、雄だったらしく、どうにもならなくなって食べることにしたらしい。家族みんなで飼っていたのだから、全員で食べないといけない、ということになり、お父さんの指示の下、家族全員で軍鶏鍋を囲み、悲しいやら美味しいやらで大変だったそうな。

 そんな話を聞いて、映画のシーンを思い出した。クリスマスイブに家族で七面鳥を食べているとき、まだ小さい男の子が食事の途中で「これ、○○ちゃんなの?」と尋ねて、お母さんが頷いた途端、兄弟全員が大泣きして、楽しいはずのディーナーが泣きの涙に包まれるという場面だった。

 しかし「生きる」ということは、こういうことなのではないか。ヒトは命をいただき続けなければ生きることはできない。ベジタリアンでも歩く度に微生物を踏み殺し、車に乗るたびに昆虫を衝突死させているのである。

 ところが、都会の生活では食品に使われる動物の生前の姿を見る機会がなくなってしまった。牛・豚・鳥・魚などは全て切り身にしてパックで売られるため、姿どころかブロックさえも見ることはない。魚が切り身のまま泳いでいると思っている子供もいるという。中国やフランスでは鶏を締められないと主婦は務まらない。鶏は生きたまま買ってきて家で締めるのが普通だそうだ。日本の消費者は余りに甘やかされていないだろうか。

 その結果、今の日本人には「命をいただきながら自分は生きている」という感覚が薄れてしまっている。この感覚は動物・家族・社会を大切にする「優しさ」を芽生えさせる根源である。これが薄れるということは、危険な状態であるといわざるをえない。

 自らが大自然の恵みをいただきながら生かされているということを自覚していれば、動物・家族・友達などを虐待するようなことは起こるはずがない。感謝の気持ちを大切にしたいものである。


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