皆さんこんにちは。

本日は「リーダーの本懐」というテーマで書き留めたいと思います。

 

ある本を読んでいて、共感する内容が書かれていました。

世間一般の視点でいえば、組織における「役職者」は、偉い人というイメージがあると思います。それなりの努力をして、また選ばれて組織の中でプロモーションをしてきた人たちですから、そういう面はあるかと思います。

 

但し、役職者自身が偉いわけでは無く、責任を果たすためにその役職に付随した権限を与えられているだけであり、役職を降りれば(会社を辞めれば)ただの人と何ら変わりはないのですけど、それを勘違いしている人間が結構多いのではないでしょうか。

 

最近は、北海道の政治家の問題もありました。このケースも、自分の役職が自分自身を偉い人であると勘違いした典型的な例ではありましたが、民間企業であっても、テレビドラマのように政策決定権限や人事権がさも自分の力で実現できると思ってしまう人もいるようです。

 

人間の思考は多様であり、必ずしも一人の権限者が判断することが正しい決定とは限らない。だから民主主義というのは、選挙で死票がたくさん生まれ、妥協や調整に酷く時間がかかる愚かしい面はあっても、市井の人間の声が全く無視される独裁政治よりは好ましいと言われているわけです。

ですから組織リーダーは、自組織をイエスマンで固めてしまうのではなく、自分と異なる意見を持ちながらも、組織のことを考える反骨のある人間をしっかり生かしておく懐の大きさが必要になると私は思うのです。

 

 

組織は、短期間に結果を数字で出すだけであれば、一般的な経営とビジネス知識をもっているそこそこの人間であれば可能かと思います。一番大切なのは、組織やそのメンバーが、どのようにしてその結果を生み出したか、というプロセスであり、そのリーダーのもとで働けて良かったと思える精神的な納得感であるのではないでしょうか。そして、それこそリーダーの本懐なのではないでしょうか。

 

上記のようなことをリーダー素養の無い私が言っても机上論にはなってしまうのですが、自分自身は、たとえ不器用であっても、また不適応な人間であると思われても、自分の良心に恥じぬよう、リーダーの本懐を忘れずに歩みたいと思っています。

 

例えば、大学における経営とは、有名企業への就職率を向上させることにより受験生を増やし、偏差値を上げることが目標になるのかもしれません。でも、その有名企業への就職率となる母数(分母)には、もしかしたら様々事情で学校への不適応となって去っていった学生は含まれていないのだとすれば、大学の姿勢としていかがなものかと・・・。

 

経営やリーダーに、経験だけではなく、また偏差値的な能力だけでもなく、哲学が必要だと言われる理由がそこにあるのかと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

2024.8.3 #350

 

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