(改訂版)アポロ計画、そして朝鮮戦争とベトナム戦争の背後にある米軍の目的は二つ
1969年7月20日アポロ11号が月面着陸を果たしますが、格段に科学技術が進歩した1980年代以降月面着陸は一切されていません。またアポロ11号の月面着陸は一切予行演習なしで本番ぶっつけで成功したものです。よって、一連の月面着陸はでっち上げであった可能性が強いと思われます。
ではなぜそれが行われたのかが問題です。この時期、米ソはデタントと言う緊張緩和の交渉を続けていました。アメリカ大統領であったニクソン氏とソ連共産党最高指導者であったブレジネフ氏の間でデタントが行われ、戦略兵器制限交渉( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5%E5%85%B5%E5%99%A8%E5%88%B6%E9%99%90%E4%BA%A4%E6%B8%89 )の内の「1969年から話し合われ、1972年の条約締結に至った第1ラウンドが第一次戦略兵器制限交渉(SALT-I)」でした。
アラスカを含めたアメリカ本土以外の核実験場はマーシャル諸島しかなく、「1946年から1958年にかけて、太平洋核実験場の一つとしてアメリカ合衆国が23回の核実験を行った」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%8B%E7%92%B0%E7%A4%81 )ということで、第五福竜丸事件などで1958年には使用が難しくなっていたからです。その後はアメリカ本土内での核実験であり、ソ連に国内で核実験をやらせるために1958年から70年まで毎年40回から70回( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93%E5%9B%9E%E6%95%B01945%E5%B9%B4%E3%81%8B%E3%82%892014%E5%B9%B4.jpg )と言う核実験をやったことにしたわけです。
ところが、アメリカの核実験数は1970年の60回以上から1971年には30回未満へ急減します。この時期にアメリカの核実験が急減したのは、ソ連の偵察衛星で核実験を実際にやっているかどうかが分かるようになってきたからであるはずなのです。ソ連は「ゼニット (人工衛星)」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88_(%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E8%A1%9B%E6%98%9F) )という偵察衛星を1961年から1994年まで運用していて、軌道変更がある程度自由に行えるゼニット4Mという衛星が1968年には実用化されていたのです。
(*以下引用開始:)
ゼニット4M
ゼニット4の改良型で、新型のカメラ・太陽電池パネル・再点火可能なエンジンを備え、ミッションの途中で軌道を変更することができた。飛行期間は13日だった。
最初の飛行:1968年 - コスモス251号
最後の飛行:1974年 - コスモス667号
(*以上引用終わり)
アメリカ軍の戦略の一つは相手の自滅を誘導することです。核実験を相手国の国内で行わせることが第2次世界大戦の核開発の時期から狙われていたということです。
ウィキの「レオニード・ブレジネフ」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%83%95 )のページには以下の記述があります。
「1956年2月、ブレジネフはモスクワへ呼び戻され共産党中央委員会政治局員候補兼書記として防衛産業、宇宙計画、重工業および首都建設指揮の任務を与えられた。」
「ユーリ・アンドロポフ指揮下のKGB(ソ連国家保安委員会)は、1930年代と40年代の粛清こそ行わなかったが、スターリンのもとで享受した力の多くを回復した。また、政治局の8割以上を自らと同じエンジニア出身者に占めさせてテクノクラシーを敷いた。」
「プラハの春 ブレジネフ政権最初の危機は1968年のチェコスロバキア書記長アレクサンデル・ドゥプチェクによる改革によってもたらされた。」
「ブレジネフは7月にドゥプチェクを「修正主義者」と批判、さらに8月20日、ワルシャワ条約機構軍を投入し、プラハの春は終わりを告げた。」
つまり、ブレジネフ氏は基本的にエンジニア教育を受けてきていて、宇宙計画にもある程度知見があったのです。また、ブレジネフ政権で政治局の8割以上がブレジネフ同様にエンジニア出身になっていて、彼らに対して米国の優位を印象付けるには、月面着陸がとても有効であったということでしょう。そもそも、宇宙でのことであり、月面着陸が本当にやれたかどうかは検証を第三者が行うことができません。また、月面着陸は他に例のない事業であり、担当部局は好きなように予算を使うことが出来たはずで、そういった意味でも月面着陸がソ連に対する脅しとして選ばれたはずです。「1969年の終わりまでに人間を月面に着陸させるというケネディの挑戦に応えるためには、平時にはいかなる国も実現したことのない規模の技術面での躍進的な進歩と、巨額の予算(250億ドル)とが必要とされた。」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E8%A8%88%E7%94%BB )と言う記述もあります。
なお、プラハの春に対するワルシャワ条約機構軍の投入は1968年8月で、その約一年後にアポロ11号の月面着陸が行われました。1968年9月14日、ソ連ではゾンド5号( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%895%E5%8F%B7 )が打ち上げられ、「ゾンド5号は引力に引かれながらを月を半周して地球へ帰還する軌道に」乗り、無人でありましたが「リクガメ、ショウジョウバエ、ミールワーム」などの「乗せられていた生物は無事」であったのです。この時期、アメリカは「アポロ8号は、アメリカ合衆国のアポロ計画における二度目の有人宇宙飛行である。1968年12月21日に発射され、地球周回軌道を離れて月を周回し、再び安全に地球に戻ってきた初の宇宙船となった」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD8%E5%8F%B7 )とされています。
自分はこの時期の有人飛行と月周回はインチキであった可能性が高いと思いますが、仮に事実であったとしても、やっと人類史上初めて有人飛行で月周回ができただけであり、依然として月面着陸船は未完成であったのにもかかわらず、その一年後には予行演習なしの本番一発で月着陸船での月面着陸とそこからの帰還が成功しているのですから、技術的な進歩が速すぎますし、この時期のNASAが非常に急いで実績を挙げようとしていたことははっきりしています。
その背景にあるのは、プラハの春に対するソ連の介入を見て、ソ連指導部内にいるアメリカ側のスパイの方たちが動揺していることに対し、アメリカは優れているから大丈夫だということを印象付ける必要があったからだと思われます。そして、だからこそ、ブレジネフ氏はアメリカとの米ソデタントに応じたわけであり、1979年のアフガニスタン派兵へと誘導されていったわけです。ソ連の体制を守るためには、近隣国の資本主義化を防がなければならないという考えが誘導されたのでしょう。アラブは基本的に部族社会であり、国家体制が昔からきっちりとは成立していなかったため、米軍がバックアップをすることで、一種の内戦状態にいくらでも誘導できるとアメリカ側は考えていたはずです。そのことは、現在のISの存在を見れば、明らかだと思います。
1969年のアポロ11号月面着陸がソ連内部のアメリカ情報機関の方たちを動きやすくするたであったとして、では、何を目的に彼らが動いていたのかが問題です。プラハの春は1968年であり、アポロ11号月面着陸はその1年後ですから、プラハの春対策ではありませんし、現実にプラハの春はソ連軍によってほぼ完全に打ちのめされてしまいました。アポロ11号月面着陸この直後にソ連が動いたのは、チェルノブイリ原発着工なのです。ウィキの「チェルノブイリ原子力発電所」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80 )によれば、「1971年に着工され、1978年5月に1号炉が営業運転を開始」しています。「1977年に1号炉が竣工し、翌1978年に2号炉、1981年に3号炉、そして1983年に4号炉が竣工した」ということで、「1986年4月26日に4号炉が爆発するチェルノブイリ原子力発電所事故が発生」と言う経過です。4号炉の工事開始日は01 Apr, 1979( https://www.iaea.org/PRIS/CountryStatistics/ReactorDetails.aspx?current=576 )ですが、アポロ計画は1961年から1972年までであり、その後、アメリカとソ連の共同の宇宙計画である「アポロ・ソユーズテスト計画」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E8%A8%88%E7%94%BB )が始まります。米ソの「宇宙船が共同飛行した最初の宇宙計画である。1972年5月に調印され、1975年7月に行われた」というものです。この後は、「シャトル・ミール計画」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%A8%88%E7%94%BB )というロシアとの間でアメリカとの共同計画が1990年代から現在も進行中です。
つまり、1969年のアポロ11号の人類初とされる月面着陸は、ちょうどチェルノブイリ原発建設に向けての準備がされている時期に当たり、アポロ11号から1972年12月のアポロ17号による最後の月面着陸は、ちょうどチェルノブイリ原発の敷地全体の整備がされていたころにあたるはずです。そして、アポロ・ソユーズテスト計画という米ソ共同作業が1975年までですから、チェルノブイリ原発1号機や2号機の建設が実際に行われている時期であり、事故を起こした4号機についてはアポロ・ソユーズテスト計画が終了した後に建設が始まっています。ロシアとアメリカの共同宇宙開発は現在でも続いていますから、宇宙科学者を介したアメリカ側のソ連体制への浸透がアポロ計画の究極の目的であったことが伺えます。そして、それはチェルノブイリ原発事故と言う形で完了したわけです。ソ連の共産党体制はチェルノブイリ原発事故が大きな要因となって崩壊したわけですから、月面着陸と言う大きなでっち上げもそれなりの大きな目的を持って行われたことが分かります。
ブレジネフ政権でゴルバチョフ氏は農業担当書記になっていました。ブレジネフ政権時代である1964年10月14日から1982年11月10日にKGB議長であったのが、ブレジネフ氏の後任として最高指導者になるユーリ・アンドロポフ氏であったのです。アンドロポフ氏は1967年から1982年までKGBの議長でした。
多分、ソ連で最初の核実験が行われた1949年には、ソ連の情報組織の中にアメリカの情報組織の関係者が相当に入り込んでいたはずです。
自分は、キューバ危機さえもある意味演出が働いたものではあると考えています。キューバはカストロ氏を中心とした勢力が革命を起こし、1959年1月に革命政府を樹立します。この時点で、まず、とても不自然です。アメリカの目と鼻の先の小国での少人数のゲリラがいくら民衆の支持を得たからと言って簡単に革命が成功してしまうのです。南米で軍事政権がどんどんと成立して一般民衆を抑圧したことを考えると、キューバでの共産革命は不思議なほど簡単に成功したと思います。そして、1961年にはピッグス湾事件( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9%E6%B9%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )が発生します。米軍のキューバ政府転覆作戦が失敗するのです。
このことに関連して、同じく米軍の作戦の失敗とされる「イランアメリカ大使館人質事件」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E9%A4%A8%E4%BA%BA%E8%B3%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )が参考になります。イランのアメリカ大使館がイランの民衆に占拠され、大使館員が人質として取られたので、その救出をやろうしたしたのですが、「作戦開始後に作戦に使用していたヘリコプター、シコルスキー・エアクラフトRH-53D シースタリオンが故障した上に、ロッキードC-130輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き作戦は失敗した」とされるものです。この失敗の原因はある意味純粋に米軍に由来するものです。
そして、この米軍の失敗によってイランの体制は強化され、ホメイニ革命が確立するのです。そして、現在、シリアのアサド政権をバックアップしているのがイラン政府なのです。もともと、イランも王政が敷かれていて、英米軍などが実質的に支配していた国家です。現状の中東の混乱の原因の一つはある意味、イラン革命の成功にあるとも言えるのです。
つまり、キューバ革命の成功、ピッグス湾事件での米軍の失敗は、故意に誘導された可能性が高いのです。では、なぜそういったことが必要だったかです。その答えは、キューバ危機の演出ではないでしょうか。そして、キューバ危機で共産主義勢力の伸張をケネディ大統領やアメリカの一般市民へ植えつけ、ベトナムでの本格介入に誘導したのです。
キューバ危機( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E5%8D%B1%E6%A9%9F )は「1962年10月から11月にかけてキューバに核ミサイル基地の建設が明らかになったことからアメリカ合衆国がカリブ海で海上封鎖を実施し、アメリカ合衆国とソビエト連邦とが対立して緊張が高まり、全面核戦争寸前まで達した危機的な状況」のことです。「ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機(英語版)など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、『(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき』とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し、『南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため』との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された『軍事顧問団』という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.A4.A7.E8.A6.8F.E6.A8.A1.E3.81.AA.E8.BB.8D.E4.BA.8B.E4.BB.8B.E5.85.A5.E3.81.AE.E9.96.8B.E5.A7.8B )とあるように、キューバ危機が発生する前年まではアメリカによるベトナム戦争への本格介入はされていなかったのです。キューバ危機以前は本格介入ではなく軍事顧問団による介入にとどまっていたのです。
それが変わったのは、「1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。これをきっかけに、アメリカ合衆国政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。」とされる「トンキン湾事件」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%B9%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )です。しかし、この事件はアメリカ軍が仕込んだものでした。「1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる『ペンタゴン・ペーパーズ』を入手、事件はアメリカ合衆国が仕組んだ物だったことを暴露した」からです。トンキン湾事件発生の前年である1963年11月22日、ケネディ大統領暗殺事件が発生します。暗殺の理由がい色々と推測されていますが、ベトナム戦争本格介入に消極的であったことが第一の理由であったのではと自分は思います。
問題は、なぜ、米軍はトンキン湾事件をでっち上げしてまでベトナム戦争に本格介入する必要があったのかです。結局、米軍はベトナム戦争に勝つことはありませんでした。武力に於いては圧倒的に勝っていたわけで、それでも勝たなかったため、「米軍がわざと勝たなかった戦争がベトナム戦争だ」とする人もいたと自分は記憶しています。1960年代を特徴づけることは、ベトナム戦争に徴兵、つまり、強制的に駆り出される一般市民からの反戦運動であり、第2次世界大戦で活躍し、アメリカ合衆国市民としての白人と平等な権利を持つと主張し始めた黒人の人たちによる公民権運動でした。そして、そういった中、1968年「公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された」のです。
1968年の2件の暗殺の背後にいる勢力は、当然ながら、ピッグス湾事件を引き起こした勢力のはずです。米軍をベトナム戦争へ本格介入させる必要がありピッグス湾事件が起こされたのですから、ケネディ大統領暗殺もその弟であるロバートの暗殺も、そして、キング牧師の暗殺も同じ勢力が起こしたものであるはずです。
ベトナム戦争には韓国軍が従軍しています。現在、韓国に存在する財閥は、主にベトナム戦争特需で成長した企業群なのです。朝鮮戦争が起こったことで日本が戦争景気に潤い、太平洋戦争直後の不況から抜け出すことが出来たのと同じように、韓国経済はベトナム戦争特需に支えられ財閥形成ができたのです。「1965年から1972年にかけて韓国では『ベトナム行きのバスに乗り遅れるな』をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した」とされています。そして、このことがきっけけで韓国は原発建設に踏み切りました。いわば、ベトナム戦争特需があったから韓国内の原発建設が可能になったのです。韓国初の商業用原発は古里原子力発電所( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%87%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80 )で、1978年に運転を開始しています。その位置は朝鮮半島の先端の日本に面した地域であり、昨年9月12日に発生した朝鮮半島南部を震源とするM5の地震(http://www.tenki.jp/bousai/earthquake/detail-20160912203316.html)の震源域のすぐそばです。この地域には活断層が確認されています。
つまり、ベトナム戦争本格介入の一番の目的は、朝鮮戦争で日本の景気にテコ入れしたのと同じく、韓国経済を発展させ、原発を造らせることにあったはずなのです。もちろん、その他の目的として、キング牧師の暗殺に見られるように、黒人の人たちの地位が高まることを危惧し、ベトナム戦争の前線に黒人兵の方たちを多く配置して故意に戦死させるということが意図されていたとされます。
最初に戻って、アポロ計画の第一の目的は、結局、ソ連に潜入しているアメリカ側の情報機関の方たちを活動しやすくさせるためであったと思います。もちろん、その他に、世界中の国々にアメリカ資本主義の優位を宣伝したいということもあったでしょうし、当時アメリカ国内で吹き荒れていたベトナム反戦運動から世間の関心をそらしたいという目的もあったとは思います。
米軍は分裂しています。またはアメリカと言う国自体が分裂しているのです。人種により、そして、原発を巡り、分裂しています。人種的な偏見と、核廃棄物処分をうまくやりたいという意思が、アメリカを分裂させているのです。
2017年02月23日17時40分 武田信弘 ジオログ(http//geocities.yahoo.co.jp/gl/taked4700)はヤフーブログ(http//blogs.yahoo.co.jp/taked4700)へ移行しました。CN:108964 SN:4073