しかし、アメリカとしては完全なる資本主義・自由主義へソ連が移行してもらわなければ困る。そのために仕込まれたのがチェルノブイリ原発事故だったと考えると非常にうまくいろいろな事象が説明できる。あの時代、ソ連国内では大型の列車事故なども起こり、ただでさえ経済的に疲弊していた。そこへチェルノブイリ原発事故が起こったために一気に経済情勢が悪化し、それまで優遇されてきた共産党幹部連中までが経済的なしわ寄せを受けるようになってしまった。このことが共産党幹部連中によるゴルバチョフ政権末期のクーデターにつながったはずだ。また、チェルノブイリ原発事故の実際の事故収束には軍や警察関係者が大量動員され、しかも犠牲者については隠蔽されたからこちらからもゴルバチョフへの反感を買うことになった。結果的にこれらのことが緩やかな共産主義からの脱却を不可能にしたのだ。原発事故の影響は東欧諸国の市民からのソ連体制への批判も招いた。ゴルバチョフの政権末期、周辺国へゴルバチョフが単身出向いて、急激なソ連邦からからの脱却を待つように説得しようとしたが多くの市民がまったく聞く耳を持たず、ゴルバチョフがもみくちゃにされることがあったが、その背景にはチェルノブイリ原発事故で国土を汚染されたという周辺国の一般市民の被害感情があったのだ。ソ連邦の周辺に位置する東欧諸国はずっとロシアに従属させられ、いろいろな意味で犠牲になっていた。

 1986年にチェルノブイリ事故が起き、当初は事故隠蔽に走った共産党政権はその信頼性を失ってしまった。特に、原発立地国であったウクライナではその傾向が強く、1990年3月に民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現、7月に最高会議が非核三原則とともに主権宣言を採択。12月の国民投票によってソ連邦からの独立が支持され、正式に独立を宣言する。

 同様な動きはその他の東欧諸国でも起こっていて1991年にはそれらの国の実質的な独立を認めざるを得なくなっていた。そのためゴルバチョフは新連邦条約というものを9月20日に結ぶことを予定していた。それを見ていた共産党幹部はソ連邦が失われ、自分たちの特権も剥奪されると考え、国家非常事態委員会というものを作って前日の19日にクーデターを起こす。その様子は次のようなものであったという。

 「国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表する。反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に戦車が出動しモスクワ放送は占拠された。(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。午前11時になるとエリツィンロシア共和国大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターに陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。」( ウィキペディアの「ソ連8月クーデター」 よりの一部引用)

 上の文章を読んで奇妙だと思われないだろうか。クーデター派にはゴルバチョフ大統領の次の地位にあるヤナーエフ副大統領が加わっていた。そして、クーデターにつきもののマスコミ統制もされタス通信やモスクワ放送も占拠されていた。それにもかかわらず、ソ連邦の中心国家であるロシア共和国大統領であったエリツィンの記者会見が許されていたのだ。更に、エリツィンの反クーデターの呼びかけに市民20万人が呼応したという。マスコミが抑えられている中で20万人もの一般市民がすぐに行動できるだろうか。また、軍の中枢であった陸軍最精鋭部隊も空軍もクーデターに参加していない。

 つまり、軍もマスコミ関係者もかなりの程度クーデターに対して反感を持っていたということなのだ。チェルノブイリ原発事故の処理に借り出されて犠牲になった軍関係者は多かったはずだし、事故の被害についての情報操作にかかわって、事故の被害が隠されていると気がついていたマスコミ関係者は多かったはずだ。彼らが中心となってエリツィンの反クーデターの呼びかけに応えるように市民を動かしたのだろう。もちろん、こういった動きの背景にはアメリカの情報機関のコントロールが終始あったことも確かなことだと思う。