共産党幹部にクーデターをやらせ、そのクーデターに反対する役割をボリス・エリツィンにやらせてゴルバチョフを救出させる。この結果、ゴルバチョフの権威も、クーデターを画策した共産党幹部の信頼性もがた落ちになる。こうして、ゴルバチョフはソ連の共産党支配体制自体を廃止せざるを得なくなり、リーダーシップもエリツィンに奪われてしまうのだ。ソ連という大国の共産主義政権を倒すまでの深刻な影響を与えたのがチェルノブイリ原発事故であった。そして、そういった原発事故を引き起こしたのが原発直下での比較的小さな地震(爆発)であった。


 1980年代までソ連は西欧諸国には強い圧力として意識されていた。そのソ連の共産党体制が瓦解する大きなきっかけになったチェルノブイリ原発事故は、直接かなりの汚染物質を西側諸国にも撒き散らすことになった。

 こういったソ連崩壊の過程とチェルノブイリ原発事故関係をドイツやイタリアは深い関心を持って観察していたはずだ。

 中国内陸部でかなり地震が頻発することが2008年の四川大地震を見ても分かるように、ユーラシア大陸内部でも地震は起こる。黒海沿岸地方はかなり地震が起こり、チェルノブイリ一帯も地震が起こる地域だったのだ。このことはドイツ政府もイタリア政府もチェルノブイリ原発事故後すぐに把握していただろう。だからこそ、地震頻発国であるイタリアではチェルノブイリ原発事故の翌年には国内の原発の新規稼動取りやめを国民投票で決め、1990年には運転中の原子炉全部の停止にまで踏み切ったのだ。
 
 それではほとんど地震の起こらないドイツでなぜ脱原発に踏み切ることが出来たのだろうか。

 簡単に言えば、チェルノブイリ原発事故に見るように一国の社会体制を転覆させるような被害をもたらす原発事故に対する恐怖だろう。単に人々の健康に害を与えるという恐怖ではなくて、ドイツで原発事故を起こせば、近隣諸国からその責任を取らされるということを考えた結果のはずだ。ドイツは第二次世界大戦で近隣諸国を蹂躙している。特にユダヤ人虐殺は大きな心理的傷として今でも多くのドイツ人に意識されている。ナチスドイツはチェルノブイリ原発が建設される前のウクライナでもユダヤ人虐殺をしているし、ウクライナ人を対ソ連戦争に駆出したりしている。第二次世界大戦後、ドイツは東西ドイツに分割され、民族分断の悲劇も味わった。だからこそ、西ドイツが中心となってEU(欧州連合)を作り、近隣諸国との絆作りに熱心に取り組んだのだ。

 日本と違って陸続きで他国と国境を接しているドイツは第二次世界大戦の戦争責任をある意味徹底的に問わざるを得なかった。政治家や官僚、司法関係者などの戦争責任は日本と比べるとかなり本格的に追及され総括されたのだ。ドイツでメルケル首相が「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言に従って脱原発に踏み切ったのは、福島第一原発事故を受けて、ここで自らがドイツ国内の原発停止に踏み切らなければ将来自分自身の責任が問われてしまうという危機感があってのことだろう。原発事故の影響は広く周辺国へも及ぶので、知らん振りするわけには行かないというわけだ。そもそも倫理というもの自体が、単に精神的な行動規範であるのではなくて、現実の他者のとのかかわりの中で平和的な共存を目指してつむぎ出されてきたものだろう。

 第二次世界大戦の敗戦を受けて、日本でも東京裁判があった。しかし、この裁判以外、当時の日本の支配層の責任を問うことは結局されなかった。戦後の日本はGHQの支配の下、経済的な繁栄をひとえに目指してしゃかりきに働くことを目指したのだ。

 そして、アメリカも日本の経済的繁栄を後押しした。家電や自動車産業において米国企業からの技術移転をさまざまな形で推し進め、アメリカ市場も開放したのだ。しかし、同時にアメリカは日本へ原発導入もさせた。中曽根康弘がキッシンジャーの誘いを受けて原発施設の見学をするのが1953年だ。GHQが日本を占領する直前の1944年には昭和東南海地震が起こっているし、GHQの占領下の1946年には昭和南海地震が起こっている。これらの地震について軍部が被害を隠蔽したと言われているが、少なくとも昭和南海地震は戦争後に起こっているものだ。そして、これらのプレート境界型の大地震としてセットで起こってきた東海地震の震源域の真上に浜岡原発の建設の認可が日本政府によりされたのが1970年であった。当然、計画自体は1960年代にされていて、この時期は日本の高度成長期に当たる。